本屋なら何でも良いってわけでもアルマーニ

 今話題の19歳。去年まで金無しニートだったけど、セカンドライフで月収13万稼いだ。一度やってみなよ。を読んだ。 
 ニール・スティーヴンスンが90年代に考え、あっさりぶん投げたアイディアをわざわざこのご時世に持ち上げた、あんな糞みたいなもん誰がやるかボケとかいうセカンドライフ批判は良いとして、別に書いてることは「小僧の神様」とあんま変わらないよね。19歳女ってだから良い話に見えるだけで、単語をちょっと入れ替えて、ひきこもりエロゲオタニートをすすきののソープに連れてったら、感動して泣いたって話にしてもそんな大意は変わらないし。いや、これはこれで凄く良い話だとは思うんだけど。
 あの話が作り話かどうかはともかく、ちょっとそのニートの気持ちがわかるのは、札幌の紀伊国屋はかなりデカいからで、単純に床面積があるというのもあるけど、それより、天井が高い。あんまり覚えてないけど、身の丈2m10cm体重0.7tの私が背中を丸めることなく悠々と歩けたのだから、その高さは知れたものだろうっていうか、本屋より俺のほうがデケえ。いや、だから、まぁ、大量に本が並べられているにもかかわらず、本屋特有の閉塞感が無く、むしろスガスガしくさえ感じるほどであり、初めて見た人はグッとくるかもしれない。俺もグッときた。
 だからと言って、その後の書店はこうこうこうした理由でamazonよりもいいとかって見るとなんだかニャー。とか思うのであり、だって、それって本屋が凄いんじゃなくて、紀伊国屋がすげーだけであり、札幌の紀伊国屋みたいな大きい本屋を一般化して話すのって逆に駄目だろ。
 大体俺の地元で、ここらへんでデカい本屋ってどこって聞かれたら多分皆TSUTAYAって答えるだろうし、それ以外の本屋だと新潮文庫フランス書院とかのエロ文庫が同じ程度のスペースで同じ棚に並べられているような、場末の本屋ぐらいしか見当たらず、これこそ有る意味平等といえば平等だけど、その平等のステージに立つ前に、資本主義に縛られた書店の親父による、売れる本売れない本の生臭い選別が行われているわけで、そんなものを平等という気には到底なれないけど、まぁ、それでも実際手にとって読めた方がいいわなとは思う。本ってのは視覚だけじゃなくて触覚で味わうものでもあるし。それにアンソロジー表紙買いして、すっげーろくでもないもの掴まされることだってあるわけだし。
 あと、個人的には紀伊国屋よりもタワーの中の旭屋書店の方が棚が詰まっている感じがして好きであり、紀伊国屋よりも、この前帰ったときに人形屋佐吉が開いていた事の方に、遥かに感動した。
 http://www31.ocn.ne.jp/~wato73/a10sa.htm
 俺の中では、昭和の中頃、昔、気が狂った店主が嫁を殺し、屍蝋化した嫁の死体を人形だと言い張って、ディスプレイに陳列するものの、ある日摘発逮捕、その後店のシャッターが開く事は二度と無かった……的な忌まわしい店だと思ったのに、結構普通の店だった。かくして子供の頃のトラウマが一つ解消された。