彼女なんかいらないし、あの葡萄は酸っぱい

 モテるための努力 - sakamuke07のメモ
 今から20年前の話をする。
 若い人には20年前がどんな時代かわからないと思うのでちょっと説明すると、昭和最後の年で、バブルの絶頂期で、池田勇人が「貧乏人は麦を食え」と言って話題になり、当時の一億は現在の十億円ほどの価値があり、東大生は皆安田講堂に篭ってマイムマイムを踊っていた。何で、彼らがマイムマイムを踊っていたかというと、当時はニンテンドーDSはもちろんゲームボーイネオジオポケットもなかったため、安田講堂ではマイムマイムを踊ることぐらいしかすることがなかったからだ。何の為に安田講堂に篭ってたかは今となっては誰も知らない。
 で、当然エロいビデオもほとんど無かった。当時はビデオどころかソウルオリンピックの影響でカラーテレビが漸く普及し始めた段階なので、おまんまんが見たかったら、彼女を作ってセックスをするか、土手の下に住んでいる薄汚い老婆に千円札を二枚渡して、老婆がたくし上げたボロから覗く、真っ白な陰毛に覆われた異臭を放つ性器を一分間眺めさせてもらうしかなかった。
 だから、当時の若者にとって彼女を持つということは恵まれた人生を送る為の必須条件と言えた。何せ、自分が初めて見る女性器が同世代の薄い恥毛に隠された薄桃色をしたプリプリしたプッシーと、女乞食の白髪まみれのドス黒いからす貝では大違いである。
 そこで、当時の若者は何としてでも彼女を作る為、テクノカットに人民服という最先端のファッションに身を包み、ディスコに行ってゴーゴーを踊ったりしてるタケノコ族を掴まえて、そのまま隅田川沿いの四畳半のアパートに連れ込み、女を脱がせ股を開かせ、「観音様じゃ、ありがたやありがたや」と拝んだりした。
 昭和とはそんな時代である。
 時代は移り変わって現在、平成、21世紀。
 我々が今こうして利用しているインターネットを使って、ちょっと検索エンジンに「おまんこ 無修正」と入力すれば、いくらでも女性器を眺める事ができる。これを利用すれば堀北真希のも見れるんじゃないかと思って、「堀北真希 おまんこ 無修正」で検索をかけたところ、色々なところをクリックさせられた上に、最終的には1秒間に30個もブラウザが開くページに連れてかれて、大変な目にあった。
 私が何が言いたいかというと、昭和と違って、現在の我々はいつでもおまんこを観ることが出来るのである。 
 我々が彼女を作る必要性は、昭和に較べて極めて乏しい。
 恋愛で最終的に行き着く先はセックスである。それを否定できる人はあまり多く無いだろう。そりゃ、精神的な充足や社会的な立場という側面もあると思うが、そんなものドラッグやロックンロールで充分代替可能である。
 だが……セックスだけはガンジャでも、内田裕也でも代替不可能であった。
 ところが、この21世紀という時代は、半径3クリック内に女性器が存在する時代である。セックスは無理でも、性欲をそれ相応に満足させる事はたやすい。
 結果として、恋愛の性的欲望の充足という側面は過去に較べて相対的に低くなった。その代わりとして、恋愛が持つ社会的な意味合いが大きくなり、非モテや愛され系などといった価値観が蔓延した。
 だが、そんな価値観など、その気になればいくらでも黙殺可能である。
 もちろん、何をしなくても恋人ができるならば、それに越した事は無いだろう。だが、自身の精神的充足と折合がつけば、別にいなくても充分生活可能であり、無理して作らなければいけないと考える必要はないし、他にやることがあるならば、わざわざ努力して、彼女を作らなければならないなんてことはないのだ。我々はそういった時代に生きてるのだと思う、多分。
 あとは、これで堀北真希のおまんこを観る事ができれば何も言う事は無いのだが……。



 



 ……というのが、昭和を体験したと言い張る知人の話で、僕の意見は一切紛れてはいません。
 当たり前じゃないですか。僕は彼女が欲しいし、その為に凄く努力をしてます。君らみたいにろくな努力もせずに、彼女がいない事の怨嗟を垂れ流している非モテと一緒にしないでください。今日も今日とて、きちんと女心を学ぶ為に、『少女マテリアル』を買って来て、熱心に熟読しました。これでいつクラスメートが家に来て、メイドさんになってもノープロブレムです。
 鳴子ハナハルは最高ですね!