文芸誌をたくさん売る方法と誰がパンドラを読んでいるのかという話

 匿名ダイアリーを見ていたら、こんな文章が載っていた。
講談社編集部の姿勢に物凄く頭にきた。
 この記事に対するブクマのコメントを見ていたらアホだ馬鹿だと叩かれていて、俺としてもこいつは馬鹿だと思うし甘っちょろいとも思うが、正直なところ彼がここまで憤る気持ちがわからんでもない。ただ、こいつの気持ちをわかる為には彼が投稿していたパンドラという雑誌について知らなくてはならないと思う。
 そもそも、いったいどこのどいつがパンドラを読んでるのか以前から不思議でしょうがなく、あんな分厚いし、2000円もする雑誌が必要になる機会なんて、隣町の番長グループと喧嘩するときにナイフで刺されても大丈夫なように、お腹に仕込むときぐらいだし、それだったら同じ厚さのアフタヌーンを買ったほうが値段が安い分まだマシである。
 それにアフタヌーンにはたまにベルダンディーのフィギュアとかがついてきて、読者の八割はそれを見るたび、「こんなもんいらんから値段を下げろよ」とか思うのだけど、番長グループと喧嘩して、死闘の上、勝利。これでこの町はオレ達のものだ! って流れになった時、一番最初にやられた隣町番長グループの下っ端が「喜多町はきさんらごときにはやれんのじゃあ!」って拳銃を取り出し発砲。弾丸はアフタヌーンを仕込んでない胸元に直撃! 倒れこむ僕らの番長。
「番長大丈夫でゲスか〜!」慌ててこちらのグループの下っ端がかけつけてくるが、すでに手遅れ……! と思った瞬間ムクリと立ち上がる番長。
「どうして、銃弾で胸を撃ち抜かれたのに……!」驚愕する仲間達。
 すかさず番長の胸元を見ると、そこには弾丸を受け止めていたベルダンディーのフィギュアが!!
「どうやら勝利の女神はオレ達に微笑んでくれたようだぜ」
 そう言って番長は莞爾として笑う。
 ありがとうアフタヌーン! 買ってて良かったアフタヌーン




 ……まぁ、現実には頭が砕け散ったベルダンディーのフィギュアを胸元に忍ばせた屍がゴロリとなるのでしょうが、よじれた末の与太話にリアリティを求めてもしょうがないので、いい加減話を戻す。
 そんなわけで先日、「パンドラを読んでいるのって誰だろうね」って話を知人といたしましたら、知人が文芸誌をたくさん売る方法と題して、それを説明してくれた。
 曰く、一般の文芸誌に関するジョークに、「文芸誌をたくさん売りたければ、新人賞の募集要項を載せると良い」というものがあるそうだ。
 このジョークのどこが面白いかというと、何でも、雑誌とは新人賞の募集要項を出すと、その新人賞に応募しようという多くの輩が購入し、結果としてその号が年間で一番売れるらしく、普段はその文芸誌を読もうともしない人間が、自分でも読みもしない雑誌に小説を応募しようとする浅はかさ、あるいは体裁や社会的地位ばかりに注目がいって、肝心の内容にはろくに触れられもしない文芸誌の現状というのがこのジョークの笑いどころらしいが、それが笑えるかどうかは置いといて、このジョークを現実にしたものがパンドラだというのだ。
 何でもパンドラという雑誌には、流水大賞という新人賞が開催されており、この流水大賞は4ヶ月に一回選考が行われ、各回の最も相対的に優れていた作品がパンドラに掲載され、それ以外にも優秀だった作品には「あしたの賞」という賞も設けられており、この賞を取った投稿者もパンドラに掲載される。
 ……あれ、今気づいたけど、この「あしたの賞」ってもしかして『あしたのジョー』とかかってる。うわ、やべえ、マジやべえ、ちょっと面白すぎるんですけど。「あしたの賞」と『あしたのジョー』だって。うひひひひ、やめて、笑い死ぬ。腹筋がちぎれちゃう。苦しすぎる、マジ勘弁。げらげらげらげら。



 そんなくだらない話はどうでもいい。
 このように、パンドラという雑誌は他の新人賞に較べて出版される可能性が格段に高いのである。またこの流水大賞という新人賞は小説に限らず、イラストやノンフィクションなど読者に対し、幅広い形で開かれている。
 しかし、新人を多く載せても、素人ばかりのつまらない雑誌になってしまう。だから、パンドラは全体から新人の割合を減らす為に、大量にプロの作家を起用した結果、あのように分厚く高価な雑誌になってしまったというわけだ。

 そして、これとよく似た形態の雑誌が世間にはある。
 皆さん、おなじみの同人誌である。
 今、同人誌っていうと、それこそ仲間内で数人でやるものというイメージがあるけど、古い文芸系の同人誌にはちょっと違った形のものがあって、まず、同人誌という場が最初にある。その同人誌を作ったのはやはり、最初の二、三人だろうけど、その同人誌ではその雑誌に書きたい同人を募集するのだ。
 無論、ただで集めてもどうしようもないので、加入した同人からは会費集め、彼らはその雑誌に小説、詩、短歌などを投稿する。そしてその中から優れた作品が同人誌に掲載され、会員はその同人誌を読むのだ。
 こういった仕組みは筒井康隆の『大いなる助走』を読んでもらうとわかりやすいと思う。
 素人の原稿を大量に募集し、大量に載せるというパンドラのやり方は、この仕組みは酷似している。
 実際、流水大賞の選考は、作品の内容に関して編集者各自が語り合う座談会の形になっている。
 座談会という形式はメフィストの頃から行われていたが、改めて考えれば、このやり方は同人誌で実際に掲載した作品を皆で講評する形に良く似ている。
 またパンドラという雑誌の母体ではある、講談社BOXには、ファンクラブが設けられており、「会費」を払うと年に数回会報が届いたりするそうである。これは読者に仲間意識を植え込もうとする同人誌のやり方に近く、さらに加えるならば、パンドラでは普通の雑誌ではありえないことに、冒頭に編集者達の自己紹介が掲載されているのだ。かのようにパンドラは読者と作り手の立場をできるだけ近づけようとしている。だからこそ、同人誌を売る「文学フリマ」なるイベントにあのような形で参加できるのだ。 
 こうした話をまとめて「パンドラという雑誌の形式は同人誌に近く、その構成は読み手は自分でも実際に小説やイラストを書く人が多い」というのが知人の意見だった。
 もちろん、実際には雑誌に掲載されている作家のファンだっているだろうけど。
 
 さて、それを踏まえて冒頭の匿名ダイアリーのエントリーを見てもらいたい。
 彼の意識としては、「自分は古くからパンドラそしてその前身のファウスト「活動」に参加してきた由緒正しき人間である」という自負がある。端から見れば単なる優良顧客だっただけだのだが、そのような考えを植えつけたのは、他でもないパンドラ編集部である。
 ところが、その編集部が著名な作家ならばともかく、突然自分と同じ素人の原稿を載せている! それも有名な作家の嫁さんだからという理由だけで!

 彼からしてみれば、やってられないところであろう。これまで一所懸命活動を支えてきた自分はいつまで経っても相手にされないのに、どこの馬の骨か知らない「素人」が勝手知ったる顔をして堂々と原稿を掲載しているのだ。彼からすれば、これは裏切られたも同然だろう。 もし、これが他の雑誌、「野生時代」や「新潮」や「SFマガジン」であれば、このような批判は噴出しなかったと思う。 だが、パンドラという仲間意識を必要以上に高めた雑誌では、このようなやり方は雑誌の裏切りを意識させるほどになるのだ。 
 無論、パンドラは同人誌に良く似た傾向を持った『商業誌』であるので、売れそうなものを載せるのは当然である。素人だろうが、無名だろうが、面白い原稿なら載せるのがプロのやり方というものだ。
 ただ、今回は問題が二つあって、一つは今挙げたように、パンドラという雑誌が内輪向けに作りすぎていたこと。そして、もう一つが今回の原稿を載せる理由が露骨すぎたことだ。
 何が露骨かというと、注意して欲しいがこれから先は俺の下世話な想像であって、かなり生臭いし、胸糞悪い話になる。



 パンドラ編集部は小説、エッセイ、イラストと何でもありの流水大賞なんてものを用意している。だから、もし彼女の才能を本当に評価しているならば、何も今すぐ掲載させないで、形だけでもそれに応募させて賞をやり、それからデビューさせれば良いだけの話である。
 それが他の投稿者達に対する筋の通ったやり方であり、このような形であれば、この匿名ダイアリーの書き手も文句は無かったはずだ。
 だが、今回はそうした段階を踏んでいる時間が無かった。何故か。
 それはあの原稿の書き手が、離婚の危機に瀕しているからである。
 今回のパンドラに掲載されていたエッセイの内容も別居中の夫の話を書いていた。現在、ネット上に流れてる噂を考えるならば、その夫は某作家のあの人なのであろう。
 そして、この手のスキャンダラスな文書は事後報告の形で成されるよりも、ワイドショーを見物するが如くリアルタイムで読むのが一番面白いのだ。だから、パンドラ編集部は急いで書かせた。その行為は、女性週刊誌に載せる独占手記のようなもので、彼女の文章ではなく、彼女の状況を重視したからではないだろうか。
 このような手法は、俺のような野次馬根性や冷やかしで雑誌を取る人間には有効かもしれない。だが、パンドラの読者層。真面目に投稿をしてきた彼のような人にとってはどうだろうか。彼にとっては、作家に関するのスキャンダラスな文章よりも、自分が頭を捻って書いた小説の方が遥かに優先度が高いのだ。
 またブックマークの中に、「掲載されるのが目的なのか?」というコメントが多く見られたが、実際、その通りなのである。彼が求めていたのは作家として活動することではなく、パンドラに掲載されて、自分がパンドラという空間の中で認められることだったのだ。だからこそ、彼のラスト一文はあのような滑稽な悲哀を感じさせるものとなったのだ。
 しかし、考えなければならないのは匿名ダイアリーの彼ではなく、パンドラ編集部の方である。
 何せ、今まで喰い物にしてきた熱心な読者であった彼でさえ理不尽であると怒り出すほどである。これに関して何らかの対応を打つのか。それともあそこまで頭に来たと言っておきながら、載せて欲しいと叫ぶあたり、まだまだ絞りとれると思うのか。


 そして、匿名ダイアリーの彼も自分が本当にしたいことは何なのかを改めて考えてみると良い。小説を書いて世間に読んでもらいたいのか、パンドラに載りたいのか、それとも雑誌に載れば何でもいいのか。
 これらを良く吟味した上で、それでも書きたいという結論が出たならば、公募ガイドでも手に取って、君の才能を受け入れてくれる出版社を探すといいだろう。



 個人的には文芸社なんかをお勧めしておく。