要は、勇気がルッキズム

 人通りの少ない道を歩きながら、同じ言葉をくりかえし呟く。
 「かわいいは正義……かわいいは正義……」
 初めに、その文章を見かけたのは書店だった。
 平積みにされた漫画、かわいらしい女の子が表紙の漫画に巻かれた帯に大きく堂々と書かれたコピー、「かわいいは正義!」
 それは絶対的に正しくて、だからこそ絶望的な響きがある。
 わずか一部の可愛い子が絶対的な正義に置かれる時、大多数のブスやブサイクはどこにいればいいのだろうか。何より痛々しいのは、差別をされるブスやブサイクですら、愚かにも可愛い子をありがたがってしまうことに尽きる。
 我々はいつだって、ルッキズムに縛られる。
 美少女がたいやきを万引きしても軽い説教ですむが、ブスがたいやきを万引きしようものならその場で通報されるだろう。
 性格の悪い美女と、気立てのいい醜女ならば、醜女が勝つかもしれないが、同じ程度に性格がよければ、必ず美女が勝つ。
 いつだって、世の中は「かわいいは正義」で「イケメンに限る」のだ。
 一度見たあの日以来、私の頭の中でたびたびこのフレーズが行進する。
 「かわいいは正義! かわいいは正義! かわいいは正義! …………正義! ……正義! 正義!」
 「努力をすれば、自分を変えられる」というのは簡単である。だが、相手は正義だ。
 努力して、努力して、ようやく近づける正義!
 そして、その正義を生来持つ人もいるのだ!
 理不尽な正義が平気でまかり通り、その正義に不満を持ちながらも、加担している自分自身。
 世界と自身の中の深淵に目を向ける。
 かわいくなければ、それだけで存在が否定される世界…………気がつくと私は地下鉄に乗っていた。いつまでも変わることのない薄暗い窓の外から目を逸らし、垂れ下がった広告に目を向ける。週刊誌のゴシップやサラ金の広告の中に混じって、女性誌の広告に書いていた、ふとしたコピーが目に入った。
 『「可愛い」は「パワー」だ』
 絶望の淵から射した一筋の光。
 そうだ。かわいいは「正義」なのではない。パワーだ!
 「かわいさ」は恋愛という領域では圧倒的な支配力を持つ。世の中を有利に渡っていけるかもしれない。だが、それは正義ではない。ならば、ブスやブサイクがかわいいという力をねじ伏せる手段だってあるのかもしれない。
 地下鉄を降りた私は世界に向かって、声高らかに宣言する。
 「可愛いはパワー! 可愛いはパワー! 可愛いはパワー!」
 だけど、非力な私の足取りは重いまま、夜道はひっそりと暗くて。