正論に屈するな。お前は虎になれ。

 サッカーを見ない方の村上、あるいは薬をやってない方の春樹曰く、今のネットにゃ“正論原理主義”なるものがはびこっているらしく、『諸君!』も『論座』も休刊となった今、やはり時代は『正論』なのかと思ったのだが、どうやら雑誌の『正論』じゃなくて、普通の「正論」のことらしい。
 俺個人としては正論なるものは圧倒的多数によるポジショントークだと思っている。
 たとえば、「貴方の裸に不快感を抱く人もいるから、街中で全裸になってはいけない」というのは間違いなく正論である。だが、国民の九割ぐらいが衆人環視の中で全裸になってみたいと思うようになれば、「街中で全裸になってはいけない」という正論の正当性は薄れてくるだろう。そこら辺が俺が正論をポジショントークと考える所以である。
 しかし、今のところ、国民のほとんどは街中で全裸になりたいとは思っていない。なので、街中で全裸になってはいけない。そして、その当たり前のことを言うのに、大勢で声を荒げて騒いでるのが今のインターネットだ。
 皆で、
「わいせつ物陳列罪になるだろ」
「そういう人たちの為に、ヌーディストビーチというものがあってだね」
「デブスの裸なんか見たくねえw」
「冬場にそんなことしたら風邪を引くだろ」
 などと、いい年した人々が、街中で全裸になってはいけないという当たり前のことを確認しながらわめいているのである*1
 大幅なコストの無駄遣いだ。そんなこと皆わかりきってるのだし、わざわざ自分で言わずともどこかのおせっかいな人々が勝手にのたまっててくれるだろう。
 たしかに、正論を吐くのは楽しい。なんてったって正しいのだから。
 こちらがダメージを負わず、強者の立場から好き勝手物が言えるし、また、自分と同じ意見を周りの人間が肯定し、正しさを再確認できるというのも大きい。日常生活でここまで有利な立場に立てることはそうはないだろう。
 だが、俺はそんな当たり前の正論になどこれっぽっちの興味も無い。
 街中で全裸になってはいけない。そんなの当たり前である。それでも街中を全裸で疾走したい。俺はそのようなストリーキングの叫びにこそ、興味があるのだ。
 俺は文章を通して、その人特有の感情や心理に触れてみたいのである。自分が間違っているかもしれない、あるいははっきり間違っている。そうと知りつつも、書かずにいられなかった人間の執着、感情の暴発こそを俺は見たいのだ。そのような文章には普通に生きていては到底気づけなかった、着眼点や奇想が伴ってくる。
 間違っていながらも言わずにいられなかった、妄念、執着は発信者を世間から遠ざけ、孤立させるかもしれない。
だが、正論なんてものは、吐こうと思えば、いつでも誰にだって吐けるものだ。だからこそ、俺は他者に正論などというものを求めず、虎となってでも自身の信念、正義に執着する人間に興味を持つ。そのように生きる人間の文章には、そう簡単に多数派に押しつぶされないだけの力が溢れている。
 もちろん、そのようなやり方をしていれば、別の虎となった人間との衝突もあるかもしれない。
 そうなったら、互いの尻尾を奪いあった挙句、バターにでもなってしまえばいい。
 さすれば、後の世代がバターになった君らをケーキにして食し、血や肉としていくだろう。
 そのようなわけで俺は、他人に正論などを振りかざさず、自身の考えに執着した虎になってもらいたい。個々人がそうした文章を書いてくれれば、俺のインターネットはもっと楽しく実りのあるものになってくれるだろう。




 そんなわけで今一押しの虎MAD(これがやりたかった)。

*1:最近の例だとこんにゃくゼリーの一件あたりか。