個人の性を開示せずに凌辱ゲームは正当化できるか?

 すり替え女の御託にゃうんざりさせられたぜw - 消毒しましょ!
 前のエントリを書く際に色々参考にさせてもらった消毒の野郎が噴きあがっていて、「反社会的と目されている表現の正当性を主張できるというのであれば、それを見たいと思っている」らしいので、正当性を適当に主張してみる。 
 とはいっても、俺の脳内理論だけでは心もとないので、図書館から適当に借りてきた、瀬地山角の『お笑いジェンダー論』を参考にしつつ。この本は、講演の書き下ろしや新聞で連載していた短いコラムなんかがまとめられて、専門的な話になりすぎず、比較的読みやすいので、フェミニズム関係に興味を持ち始めた人にはまずまずお勧めします。
 本書の中の「性の商品と性差別」という2ページほどのコラムの中で筆者はこのように書いている。

 現実の性の商品に性差別的なものが含まれていることは疑いない。しかし同性愛・「変態」など、多様な性を保証するのが商品だとすれば、商品になること事態が性差別的なのではない。金銭を対価に労働を売るのは、労働の本質であって性のみが特殊との議論はかなり難しい。つまりそこには良い商品と悪い商品があるのであって、性の解放論からできるのは悪い商品の批判なのである。
 この善悪の基準は、一般的には確定不能である。良い文学が定義不能なのと同じで、これは社会成員の快・不快の綱引きの結果決まるのである。この際売る側・買う側の自由意志が存在することは最低限不可欠の条件だし、性差別的なものを不快だと主張することも当然重要だ。

 この引用部によれば、ポルノにおいて善悪の基準は不可能で、快・不快の綱引きの結果により規制の有無は決まってしまうということになる。そして、『レイプレイ』の内容などにより、綱引きの綱が不快の方に大きく引っぱられた為、規制しましょうというのが現状である。
 こうした中で、規制に反対するには、不快である要因をどうにかするか、何らかの有用性を主張して、綱を再び快の方向に引き寄せるかのどちらかが必要であるが、今回は反社会的と目されている表現の正当性を主張しなくてはならないので、綱を再び快の方向に引き寄せる方向で話を進める。

 そして、引き続き『お笑いジェンダー論』より引用すると「ポルノコミックの男女比較」というコラムでは次のようなことが書かれている。

 さて読んでみてまず感じるのは、思ったより内容が似ているという点である。男性向けにせよ、女性向けにせよ性描写の多い漫画では、タブー視される事柄はあまりなく、描かれ方にそれほど違いを感じないのである。よく指摘されることだが、「強姦されているのに最後には許してしまう」といったパターンが、女性誌にもかなり登場する。こうした描写については、現実の強姦を誘発する危険性と潜在的な欲望を平和的に発散させる機能との両面から常に問題となるものなのだが、その二面性を象徴しているのかもしれない。

 ここには、「強姦されているのに最後には許してしまう」といったパターンには二面性があると書かれている。
 さて、このコラムの内容を使って、「反社会的と目されている表現の正当性を主張」すると『凌辱ゲームは、反社会的でありながらも、より反社会的である男性の女性を強姦したいという潜在的な欲望を平和的に発散させるという点で社会の役に立っている』と主張することができる。
 一応このような相関関係のデータもあるわけだし。
ポルノと強姦(その1)
ポルノと強姦(その2)
 
 勿論この世に存在するポルノの全てが凌辱ゲームではないので、規制してみたところ必ずしも性犯罪が増大するとは限らないし、そもそも上のデータだって、ポルノを規制した結果、性犯罪が増えたというデータではないので必ずしも適用できるとは限らない。また、上の文章で危惧された「現実の強姦を誘発する可能性」について触れないのはアンフェアではあるが、一応、それなりの正当性は示せたと思う。
 こういうことを言うと、次に出てくるのは「じゃあ、凌辱ゲームをやってる奴は、皆強姦魔予備軍か」という意見であるが、そんなはずはない。凌辱ゲームをやる人間にも色んな奴がいるし、中には本物の強姦魔が潜んでいるかもしれないが、だから全ての凌辱ゲームをプレイする人間が強姦魔であると見なすのは、偏見であり、容易に差別に繋がりうる。そして、ここからが本題になる。

 仮の話であるが、実際に凌辱ゲームと性犯罪の相関関係を調査した結果、凌辱ゲームが広まれば広まるほど、性犯罪の件数が減るということが明らかになったとする。あくまで思考実験なので、あまり目くじらを立てないで欲しい。
 さて、そうなった場合、果たして女性達の凌辱ゲームに対する不快感は無くなるのだろうか?
 多分、無くならないだろう。
 そもそも、統計の数字と性差別による不快感は全然別物なのだから、それで相殺出来ると考えるのが間違っている。
 実際に性犯罪が減少するにしろ、不快なものは不快だろうし、むしろ、周りの凌辱ゲームをプレイしている奴が凌辱ゲームを取り上げたら、強姦魔に変わるかもしれず、かえって、より恐ろしく感じるかもしれない。
 結局のところ、俺が上で出した『凌辱ゲームは、反社会的でありながらも、より反社会的である男性の女性を強姦したいという潜在的な欲望を平和的に発散させるという点で社会の役に立っている』という主張は男側にとって都合のいい主張でしかない。だって言い換えれば、『強姦しないでやるから、凌辱ゲームやらせろ』というものなんだから。
 少なくとも上記の主張は、ポルノの問題の一つである、性差別による女性の不快感を完全に無視している。
 それを解決する為には、女性からの最低限の理解を得られなければならない。
 では、一体どのようにすれば、女性の不快感を減らせるかというと、結局正直に自らの性的嗜好をカミングアウトするしかないのではないだろうか。
 消毒の野郎は「エロゲを擁護するにあたっては必ずしも「当事者個人の性を開示する」必要はない」と言っているが、ポルノとは肯定するにしろ、否定するにしろ性的な問題を含まざるを得ない、そして、そのような当事者意識を欠いた擁護で不快感を覚える当事者の女性を説得することができるだろうか?
 結局、説得力のある擁護をするためには、凌辱ゲームで発散しなければならない欲望、たとえば、「僕は嫌がってる女性の姿じゃないと性的興奮を覚えないのですが、だからといって実際の女性に乱暴を振るって傷つけてやろうとも思えません。それでは、凌辱ゲームが規制されたならば、僕の性的欲求はどのように処理すれば良いでしょうか」というような当事者個人の性を開陳することで、初めて相互理解に近づくことができるのではないだろうか。
 無論、こうして、カミングアウトしたところで、凌辱ゲームが無条件で肯定されるべきだということにはならない。カウンセラーを紹介されたり、性欲を抑える薬の服用を義務付けられたりする可能性だってあるし、相手にもされず一蹴されるかもしれない。しかし、何はともあれ、土俵に上がらなければ始まらない。
 だが、ここには当然凌辱ゲームが規制される、されない以外の問題がある。こうした性的嗜好を表沙汰にするのは大変リスキーであるということだ。
 たとえば、今同性愛が世間である程度認知されているのは、過去に社会の偏見を恐れながらも勇気を持ってカミングアウトした人達のおかげだが、彼らが世間から受けた迫害はかなり厳しいものであっただろう。
 そして、凌辱を好む性的嗜好というのは同性愛以上に反社会的である。同性愛ならば、互いに嗜好のあうパートナーを見つければ、それで済むだろうが、凌辱を好む性質とは、そもそものパートナーの存在を否定するところから始まるのだから、人間の性行為は全て強姦であると主張していた岸田秀あたりならともかく、恐らく世間一般からすればとんでもないバッシングの対象となりうるだろう。
 そして、id:lisagasuのコメントはそのような立場からなされている。と思う。
 消毒は、「陵辱エロゲを守りたいのなら「土俵にあがらない」限りどうしようもないし、上がる気がないのなら黙って規制を受け入れりゃいいだけのことじゃん。」と書くと同時に、「エロゲを擁護するにあたっては必ずしも「当事者個人の性を開示する」必要はない。」と書いているが、これは互いに矛盾している。
 今、この場で土俵に上がる、即ち凌辱ゲームの有用性を説くという事は、「当事者個人の性を開示する」ことに他ならない。
 一応こちらでもそういった意味合いでこの比喩を扱っている。
 いや、id:lisagasuがそういう意味じゃないです。全然違いますって言ったら凄い困るのだけど、とりあえず俺はそのように読んだ。
 今回の消毒のエントリーに関しては他にも色々言いたい事はあるんだが、とりあえず一番気になったところだけ書いたので、読んでくれたら、適当な感想と、「当事者個人の性を開示する」ことなくエロゲーを効果的に擁護する方法を教えていただけると助かる。