非モテに神はいない

 村上春樹がぜんぜん卵寄りじゃない件について
 サマーウォーズ見たら死にたくなった
 
 「村上春樹」と『サマーウォーズ』という全く別のものに対して(おそらく)別の人間が語ってるのに、ここまで似通った意見になってしまうあたり、非モテという人種の病根はかなり深い。
 両方とも、基本は「モテる奴が憎たらしい」っていう意見なんだけど、この二つの根っこはもうちょい深くて、突き詰めると、「俺は世間から疎外されてる」みたいな話に行き着くと思うんですよ。
 もし、春樹が3000部しか売れなかったりすれば、あるいは『サマーウォーズ』が糞映画として、デビルマンみたいな扱いをされていたら、二人ともこんなルサンチマンを垂れ流す必要は無くて、これらの作品が誰からも受け入れられてなければ、この作品の登場人物は特別なんだ、絵空事なんだ。だから自分がこのような登場人物みたいに生きられなくてもしょうがないって割り切れるじゃない。
 けど、実際にゃ春樹は新作をあっさり200万売っちゃうし、『サマーウォーズ』はリンク先の人が言ってる通り「いい映画」だし、世間的にも好評。つまり、これらの作品はアリ、充分感情移入の対象になりうるって話ですよ。
 自分にとっちゃ全然程遠い別世界の人間にしか思えないような設定にもかかわらず、世間一般の人はそれが特別でも何でもない当たり前のこととして、感情移入できてしまう。
 この世間との隔絶っぷりを、一言で表すなら、ま、絶望ですよね。*1
 

 まぁ、そういう、非モテの人を拾い上げるものが全くないかというと、そういうわけでもなくて、たとえば、一時期の大槻ケンヂは、そういう人向けの小説なんかを結構書いてたりしたんだけど、色々あって鬱病をハードにこじらせ、治ったと思ったら、「バンドブームだった頃はグルーピーの姉ちゃん達とやりまくったぜ」みたいな話ばかりを書くようになった。
 滝本竜彦非モテが抱える絶望にもうちょっと踏み込もうとして、「可愛い女の子が来たって、お前がお前でいる限り、何も変わらないし、変われないんだぜ」みたいなことを書こうとしたら、その後大スランプに陥って、結婚なんかもしてみたけど、小説は書けないままだし、結局離婚しちゃいましたと、小説じゃなくて現実でそのテーマを実践してしまった。
 本田透は『電波男』で物凄い極論を振り回して、一定層からの熱い支持は受けたのだけど、しょせん、一定層からの支持は一定からでしかなかったのか、その後に出したキモメン雑誌『ファントム』が微妙な結果に終わってしまった。
 やっぱ非モテって書くの難しいと思うんですよね。ほら、トルストイも『アンナ・カレーニナ』で幸福なカップルはみなそれぞれに幸福であるが、不幸な非モテはすべてよく似よったものである。って言ってたしさ。
 俺個人としては、浦賀和宏の「松浦純菜シリーズ」が、そういう非モテが抱える屈託を上手く書ききったと思うんだけど、レーベルの都合上、最初は普通のミステリーとして書かれていたせいで、非モテからは然程注目されず、しかし、中盤からの主人公の自意識がマイナス方向に暴走していく展開は、一般のミステリー読者から拒絶されてしまい、結果として、本来の読者層に届くことなく終わった不遇の作品だと思っている。
 中盤以降の八木の自意識の暴走は感動的なまでに無残で滑稽なのに。
(参考:浦賀和宏「生まれ来る子供たちのために」は、すべての非モテがいま読むべき本だと思う。 - 脳髄にアイスピック

 あと、非モテの悩みって物凄く個人的な所に集積してるせいで、結局愚痴や自己憐憫にしかならないので、ギャグ、それも自虐的な形で昇華しないと、端から見ていて正直しんどい。
 そういうルサンチマンを上手い事ギャグに変換したっていうのは「伊集院光」と『ラブやん』じゃないですかね。
どっちも、送り手が微妙に非モテ当事者でないところがポイント。
 まぁ、世の中ってのは基本的に、モテがデザインして、モテのために作られているので、だって、非モテが暮しやすくなったら皆非モテになって、人類が絶滅しちゃうじゃない。とかく非モテは生き辛いのですが、しかし、春樹だって主人公がモテの一人称じゃない作品は結構面白いものだしさ。「トニー滝谷」とか。
 『サマーウォーズ』だってそうだ。
 確かに主人公のリア充っぷりに何らかの疎外感を味わうかもしれないけど、それでもこの映画にはそれを差し引いても良い所がたくさんある。
 ってなわけで以下、サマーウォーズの感想。

*1:ここで挙げられてる世間がどれだけ胡散臭いものであるかはひとまず置いておく。