疚しさと楽しさと啓蒙と

 「ふかふかのソファーに座って吸う上等の葉巻よりも、授業をサボってこそこそと学校のトイレで隠れながら吸ったタバコの方が美味かった」みたいな趣旨の文章を、筒井康隆のエッセイで読んだ記憶があるが、背徳というのは娯楽や遊戯における最高のスパイスである。スイカに塩、プリンに醤油。子供が火遊びや夜遊びをしたがるのもむべなるかな。

 人間は正しくありたいと思うし、そう思わない人でも、自分以外の人間は正しくあるべきだと身勝手なことを思ったりしてしまうものだが、この場合の正しさというものは実に曲者で、例えばベジタリアンに「他の生き物を殺しその肉を食べて美味いと感じるのは人としてどうなのだ!?」と糾弾されたらもにょってしまうし、倫理的な側面だけならば、価値観はイナメナイとスルーできるかもしれないが、「牛肉を生産するのに必要なカロリーは牛肉から摂取できるカロリーの30倍であり、世界中に飢餓で苦しむ人が溢れているのだから肉食という文化は大変非効率的である」という意見はそれなりに正しいものであるし、それを聞いた多くの人はちょっとした疚しさなり罪悪感なりを覚えるかもしれないが、それでも多くの人たちは肉を食べるのを辞めようとはしないだろう。
 ある側面から見た場合それが正しいことだとしても、その正しさを他人に強制するというのは困難なことである。かくいう自分も己の怠惰さから環境によろしくないと知りつつも、菓子パン一個を買うだけでもビニール袋に入れてもらったりしている。
 とはいえ、一切の疚しさを持たずにインモラルな己の欲望を全肯定する態度を嫌がるという気持ちはわからないでもない。

 そこで冒頭の筒井康隆の話に戻る。
 人間は皆多かれ少なかれ背徳的な行為に密やかな憧れを抱く。
 もし他人がある特定の行為に全く疚しさを抱いていないことに、嫌悪感を抱くのであれば、その場合にすべきことは、「そのような行為に疚しさを感じないのは人として正しくない!」などと人としてあるべき姿を説こうとするのではなく、「疚しいと思った方がもっと楽しめるよ」と耳元でそっと囁いてやることだ。
 悪を楽しむという行為が逆説的に己の行為の疚しさを当人に思い至らせるのだ。

 もっとも、こうした考え方は行為に対する疚しさや罪悪感がより強い楽しみを求めようとする欲望の歯止めになるという前提に立っており、いささか性善説に依りすぎているなとも思うのだが。