『ガッチャマン クラウズ』におけるヒーローとは何だったのか?

 前のエントリで、『「ヒーローとは何か」というテーマがスルーされてしまったのが残念』みたいなことを書いていたが、改めて最終回を見直すとそんなことはなかった。残念だったのは俺の見方であった。
 というわけで、改めて『ガッチャマン クラウズ』におけるヒーローとは何だったのかを考えていきたい。
 まず語られるべきは、初代ガッチャマンの要素を多く残している丈さん。いかにも典型的ヒーローとして描かれる彼は、世界を守ろうと意気込んだもののあっさりと戦いに敗れ、さらに自分より優れた奴なんて大量にいるという現実を突きつけられてヒーローであることをあっさりと放棄した。これによって、この世界ではただ優れた力を持っているだけではヒーローたりえないことが表される。
 次にクラウズ。ガッチャマンだけではどうしようもない状況で、ルイは特別な力を民衆に分け与えたことで、騒動を収束することに成功した。誰もがヒーローになれる。これは素晴らしい。しかも、旧来のヒーローと違って、個ではなく集団としての行動が可能である。まさに世界のアップデート。
 しかし、彼らには力を与える際に、「ヤバかったらいつでもやめれば良い」という安全と離脱の保障も与えている。だとすれば、自らの命が脅威にさらされた時にクラウズはヒーローとして行動できるのか?
 そこではじめちゃんである。彼女は悪意の塊であるベルク・カッツェと共生の道を選んだ。このリスクを伴う選択はクラウズたちには不可能だろう。
 ここに最終回ではじめちゃんが歌っていた「ヒーローって何スかねえ?」問いかけの答えがある。
 誰もが特別な力を持つ世界でヒーローに求められるのは、他者が「できないこと」をするのではない。他者が「やりたがらないこと」を行うのが真のヒーローの条件となるのだ。
 そして、そんな割を食う役目など普通の人間にはできるはずがない。だからこそ、一之瀬はじめなのだ。
 彼女は最初から最後まで一貫して、異質の存在として描かれた。彼女の言動は学校の教室内ではもちろん、同じヒーローであるガッチャマンからも、敵役であるベルク・カッツェからも完全には理解されなかった。
 そうした周囲とは異なる価値観を持つ彼女だからこそ、「悪との共生」という常人離れした決断ができたのだ。
 こうして、一之瀬はじめという一人の少女の姿を通じて、『ガッチャマン クラウズ』は「ヒーローとは何か?」という古典的な問いに答えてみせた。
 色々ポップなキャラクターデザインだったり、SNSなど目新しい題材を取り込みながらも、それでも『ガッチャマン クラウズ』はタツノコプロの作品の系列に連なる正統派のヒーローアニメとして完結してみせたと言える。言えるのだが……
 しかし、物語は終盤で物凄い駆け足で進んでしまい、そうしたはじめちゃんの決断の部分がわかりづらくなってしまったのが凄く残念なのである。
 俺が勘違いしたのも仕方がないね!
 それでもこうやって考えると、やっぱ『ガッチャマン クラウズ』はヒーローものとして、凄く良いアニメだったと思うし、だからこそどうにかDVDが発売されるときは、最後の二話を修正して、ちゃんと補完してくれないかしらと思う次第なのである。
 おしまい。