南京は作られていない

 年越しから年明けにかけて、あんな話題で盛り上がっている、はてなだが、そんな喧騒とは一切関係ない、このサイトだからこそ出来るやり方で、貴方だけに真実を話そう。
 敢えて断言しよう。南京事件など、存在しなかった。
 そもそもが遠い過去の話である。事件があったとされる、その当時、僕は生まれていなかったし、僕の父親ですら生まれていなかった。貴方もそんな感じなのではないだろうか。そんな時代にあったことを歴史的資料などを紐解いて、真実などが見出せると思っているのが、ちゃんちゃらおかしい。全ては虚妄の集合に過ぎない。
 更に断言しよう。南京など存在しない。
 この意見を一笑に付すものは、まず訊きたい。では、貴方は何を以って南京の存在を肯定するのだと?
 確かに地図を見れば載っているし、南京が頭につく言葉はたくさんある。「南京虫」「南京玉すだれ」「南京錠」「南京玉すだれ」「南京豆」「南京玉すだれ」そして「南京大虐殺」。だが果たして、それらを以って、南京の何を証明できたというのだろうか? 
 確かに、南京を調べれば、いくらでも南京に関する情報は見つかるだろう。だが、それが真実であるという保障はどこにある? そのような貧弱な情報で、「南京」と「ネバーランド」や「中つ国」、「オズの国」といったフィクションの世界と区別がつけられるのか?
 さらに言うならば、実は中国自体が存在しない。
 考えてみれば、人口十億人とか四千年の歴史という大仰な数字をまともに受け止める方が間違いだったのだ。南京どころか中国は存在しない。ただし中国語は存在する。中国が存在しないのに中国語があるというのは奇妙な話かもしれないが、スター・ウォーズにだって、現実には存在しない惑星の言語が登場するではないか。
 ここまで来ると、流石に反論があるかもしれない。中国は実際にある。私は行ったことがある。あるいは、実際に今現在住んでいる。といった類のだ。
 だが、ここで私は問いたい。貴方が中国だと思っているそこは、本当に中国なのか?
 貴方はそこが中国であるという根拠をどこに持っている? 貴方はそこで、自分が知っている中国の情報と照らし合わせて、そこが中国であると判断したのだろう。だが、それは誰かが貴方が知っている中国の情報を用いて拵えた貴方を騙す為に作られた都市であるという可能性はないだろうか。貴方は果たしてその可能性を否定できるのか?
 しかし、貴方は思うだろう。こんなに多くの人が議論をしているのに、それが全部嘘なわけない、と。
 ここで貴方に無残なまでの真実を突きつけなければならない。
 そのような人たちは最初から存在していないのである。あれらの議論は、最初から全てがそうなるように、展開されていたのだ。全てがぺてんであり、それぞれの立場に分かれた彼らの意見は、全てが虚構なのである。
 そんなことないと貴方は思うかもしれない。しかし、貴方は彼らに会ったことがあるのだろうか?
 貴方は彼らの存在をその文章でしか知らないのではないだろうか。
 もしかすると、彼らのうちの一人、あるいは複数名に、オフ会などで、あるいはたまたま偶然会った事があるかもしれない。だが、果たして貴方が会った人物とその文章を書いている人が本当に同一人物なのだろうか? もしかすると、貴方が会ったその人物は、その文章を書いている人を名乗る為だけに存在した、ただのエキストラなのかもしれない。もしかすると、貴方を騙す、その為だけに、その時、その場所だけに存在したという可能性もある。
 ここで貴方は疑問に思う。ではお前、即ち、この文章を書いている私の実在はどうやって証明するのだと。
 残念ながら、貴方が中国の存在を証明できないというレベルで、私はこうして文章を綴りながらも、私自信の存在を証明する事は出来ない。「コギトエルゴスム」などと呟くぐらいが関の山だ。
 しかし、私は自分自身の存在を証明できない代わり、貴方が存在するという事を「知っている」。
 だから、私は貴方に改めて真実を提供したい。
 インターネットなどというのは、全てが、貴方の与り知らぬところで作られた虚構の集積でしかない。
 インターネットになど全ては嘘である。ネットを通じて、貴方が回線の向こうにいると思い込み、コミュニケーションを取っていると思っている人間などは存在しない。それは鏡に向かって話しかけるのと同じぐらい空しい事だ。
 恐らく、貴方は、私のことを法螺吹き、あるいは偏執狂の一種だと、思っているだろう。
 実際、貴方は私の言う事など無視して、これまで通り暮らしていっても、何の問題も無いだろう。しかし、貴方が現実だと思っている、それが全て嘘っぱちということも「知っている」。残念ながら、貴方が現実だと盲信しているそれを、嘘だと証明する方法は今のところない。
 だから、私に出来るのはせいぜい、このようなメッセージの送信ぐらいである。
 何にせよ、今年という年が貴方に取って良い年にならんことを。