それは、多分届くべきじゃないところに届く。

立川志らく「死にたいなら1人で死んでくれよ」 登戸事件で身柄確保の男死亡(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース

川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい(藤田孝典) - 個人 - Yahoo!ニュース

「死にたいなら一人で死んでくれ」というのはうちの母なんかがニュースを見たら真っ先に言いそうな言葉だとは思ったが、こういうことを言ったり書いたりするのはあまりよろしくないと個人的には感じていて、それを何とか言語化しようと思ったのでブログである。

 まあ、控えてほしいという理由については上の記事で藤田氏が充分説明していると思うのだが、理屈ではわかっても感情的には納得いかない人もいるだろう。

 このニュースを見て「死にたいなら一人で死んでくれ」と直感的に感じた人はきっとたくさんいるし、事実、立川志らくの発言に対しても肯定的なコメントがいくつも並んでいる。

 こうした義憤から発せられた言葉に対して、そんなこと当然の規範意識だと考える人もいるだろうし、自分の怒りを代弁してくれたと強く共感する人もいるかもしれない。

 だが「死にたい」と考えている人からすれば、これはとてつもなく刺さる言葉だ。

 これは、あくまで凶行に及んだ「犯人」に対して向けた言葉であって、「死にたいと思っている人」「自殺を考えている人」への発言ではないという意見もあるかもしれない。

 しかし、それならば「辛くても自暴自棄になるな」「無関係の人を傷つけてはいけない」という言葉でもいいはずだろう。そこで踏みとどまれずに「死にたいなら一人で死ぬべき」とまで言ってしまうのは、ある種の断絶を明確に可視化する残酷な表現に僕には思える。

 そうした言葉がつい出てくるほどの酷い事件だったし、このような激しい怒りに囚われるのも被害者や遺族の悲しみや苦しみに寄り添える人間らしい感情の表れなのかもしれない。親しい友人や恋人、家族に対して、こうした言葉を漏らすのも、事件で衝撃を受けた感情の整理として間違ってはいないのだろう。

 だが、そうした思いをSNSなどの不特定多数が見える場所で、率直に書き込んだりすることは、いったん胸に手を当てて抑えてほしいと思ってしまう。

 なぜなら、本来その憤りを一番伝えなければならない犯人はすでに死んでいて、この強い言葉を受け取ってしまうのは本来受け取るべきではない人、「死にたい」と思ってる誰かかもしれないのだ。