ホラーであり、ミステリーであり、アイドル映画っぽくないようで、確かにアイドル映画だった『トラペジウム』

 例によってこっから先は『トラペジウム』のネタバレしかしない。世の中にはネタバレされても面白さが減じない作品もあるが、俺は『トラペジウム』という作品はある種のミステリーであり、ネタバレをすることで、本作の良さがだいぶ目減りすると思いこんでいるので、まだ観てない人は素直にブラウザを閉じてほしい。

 

初見時のトラペジウムには確かにホラーだった。

 

 

さて、荒木飛呂彦は自著『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』のまえがきで、ニューヨークのハーレムで家族に虐待を受けながら暮らす黒人の少女の映画『プレシャス』についてこう書いている。

「感動作ですし、監督もそうなることを意図して作ったはずですが、それでも僕は、この作品はホラー映画だと思います。(中略)これは何よりも人を「怖がらせる」ために作っている。そう思わされる映画です。少女をそんな境遇に追い込んだ社会を告発する目的であれ、アメリカで黒人が背負わされてきた悲惨な歴史に目を向けさせる目的であれ、とにかく恐怖以外の何ものでもないこの世の地獄を、真正面から描いている。だからこの作品は、僕にとってホラー映画なのです。」

 そして俺にとって『トラペジウム』という映画もホラー映画であった。少なくとも途中までは物語が最悪の方向へ転がっていく不安にずっと襲われていた。

 だって物語のスタートからして、「アイドルを目指す主人公の東ゆうが東西南北の高校から美少女を集め、東西南北を売りにしてアイドルになろうとする」なんだもの。だってこういう他人を利用することばかり考える人って最終的にはすべて失敗して破滅するのがお約束じゃない……。

 東ゆうがアイドルになるための計画は途中までは上手くいってとんとん拍子で仲間も集まりアイドルデビューまではこぎつけるのだが、その後は予想通りグループ内の不和の描写がどんどん増えていき、露骨に曇り空のカットが多くなって、劇伴もどんどん不穏なものに。

 俺はこの中盤の時点で4人のメンバーのうち、最終的に2人ぐらいが死ぬんじゃないかとハラハラしていた。「アイドルのアニメで10代の女の子を2人も殺ったらもっと大炎上してんだろ」ってのは冷静になったらわかるんだけど、鑑賞中はそんな死を予感させるぐらいの切迫感があった。演出がよっぽど上手かったか、俺が人間の善性を信じられていないかのどちらかであろう。

 そうして東ゆうが仲間と作ったグループ「東西南北(仮)」は仲違いの末に解散して、東ゆうは憧れのアイドルから普通の女の子へと転落し、失意の日々を送るばかり。

 その様子を見てる俺は東ちゃんがベランダに立つたびに「このまま飛び降りちゃうんじゃないか……」とひたすら心配していた。この時点で俺にとっての『トラペジウム』は完璧にホラー映画だった。観終わったら岡崎京子の『ヘルタースケルター』と同じ箱に入れておこうと固く心に誓った。

 ところが最終的に東ゆうは仲間たちから許される。

 仲間の一人はアイドル活動のプレッシャーに泣きわめくほど追い詰められ、別の一人は彼氏の存在が発覚してSNSが大炎上。その際に東に大きく舌打ちされ、「彼氏がいるんだったら友達にならなきゃよかった」とまで吐き捨てられたのに、彼女たちは東ゆうをあっさりと許す!

 

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 びっくりするぐらいのどんでん返しだ。これが推理小説なら「ラスト数ページに待ち受ける驚愕の展開!!」みたいな帯がつくことだろう。

 かくして許された東ゆうと利用された元メンバーは無事和解して、映画はハッピーエンドを迎える。

 観終わった当初は「後味は良かったけど、あの和解はちょっと急展開だったのでは……?」と思わなくもなかったが、その後映画について考えれば考えるほど、あの和解が自然なものに感じられていく。

 この作品にはあの和解を成立させるだけのロジックがきちんと組み立てられているのである。

 

亀井美嘉はなぜ東ゆうを殺さなかったのか

 さて、アイドルになるために周囲を利用することしか考えていなかった東ゆうがあんなにもあっさり許されたのか?

 この謎の答えはとても単純で「みんな東ゆうのことが大好きだったから」である。

 言葉にすればたったそれだけ。DIOの敗因並みにシンプルな答えだ。

 東ゆうという女は手段を選ばない。アイドルに引き込みたい美少女の一人大河くるみがロボコンに参加していると知れば、話を合わせるためにわざわざプログラム言語の本を読んで勉強する。くるみが学校のプールが汚くて十分なテストができないと嘆けば、伝手を使って綺麗なプールを見つけてくる。その後もロボコンに向けた動作試験に週一でつきあい大会本番にはちゃんと応援に行く。

 そうして大河くるみが十分に心を開き始めると、彼女はひっそりとあくどい笑みを漏らす。こうした彼女の笑いは利己的なモノローグと相まってひどく邪悪な印象を残す。でも待ってほしい。この女、客観的に見ると最高の友人では?

 そう、打算から来る東ゆうの行動は、それぞれ学校で浮き気味だった他の3人にとって大きな救いとなっていたのだが、アイドルデビュー計画にしか目を向けていない東ゆう自身はこのことに気づけない。

 東ゆうからすれば「彼氏がいるんだったら友達にならなきゃよかった」(何回見てもひでえセリフだ……)ぐらいの存在な西南北の3人だが、彼女たちが東ゆうに向ける矢印はひどく重いのだ。

 映画を見直すとそれぞれの東ゆうへの好感度の大きさはさりげなく、そして確実に表現されているのだが、東ゆうだけではなく観客にもなかなかその事を悟らせないようにしているのが本作の巧妙さである。

「信頼できない語り手」としての東ゆう

 なぜ西南北の心情に東ゆうだけでなく観客も気づけなかったのか。

 破滅を予感させる不穏なストーリーラインや、やたらインパクトの強い東ゆうの露悪的で利己的な言動など、より注目すべき情報に気を取られて、そちらにまで気が回らないというのもある。だが、やはり決定的な要因は本作の主人公である東ゆうが「信頼できない語り手」であることだろう。

 本作は終始ほぼ全てのシーンに東ゆうが登場し、彼女の視点で物語は進行する。東ゆうが登場しない例外的な場面は、華鳥蘭子と大河くるみが二人だけで帰宅している場面ぐらいだったはず。

 そしてこの東ゆうはとことん自己本位の人間だ。

 先ほど大河くるみにとって東ゆうがどれだけ献身的な友人であったかを紹介したが、TVアニメなら1~2話は使いそうなこの一連の流れは、劇中ではあっさりとダイジェストで流される。大河くるみの中でとても大きな友情が育まれた大切な時間は、東ゆうにとってはアイドルとしてデビューする目的までの過程でしかないのだ。

 また中盤、東ゆうは車いすの少女サチにアイドルになると指切りをして約束する。

 

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 実にいいシーンだ。この後実際に東ゆうがアイドルになる夢を叶えたことはサチにとって大きな希望となっただろう。だが、そのことは劇中で直接的には描かれないし、東ゆうもサチのことを終盤まで特に思い出す様子もない。

 このように本作は東ゆうがやらかしたことや利己的な内面は克明に描くくせに、彼女が周囲に与えた希望や救いについては結構な割合でスルーされる。

 その結果どうなるか。それを象徴するのが、物語後半で東ゆうが母親に向かって「私ってさ、嫌な奴だよね」と弱音をこぼすシーン。

 

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 ここを観て観客の多くは「知ってた」とか「やっと気づいたのかよ」とか心無いことを思うだろうが(少なくとも俺は思った)、彼女の母はこう答える。

そういうところも、そうじゃないところもあるよ、ゆうには

 そうなのだ。東ゆうには「そうじゃないところ」もいっぱいあるはずなのだ! にもかかわらず、この映画は東ゆうの視点から彼女の嫌なところばかりを撮ることで、東ゆうがここまで愛される人物であることを隠していたのだ。

 これこそがこの映画の最大のトリックである。

 これまでさんざん短所として描かれてきた東ゆうの自己中心的な性格だが、見方によっては大きな長所ともなる。

 それを証明するのが、亀井美嘉との小学校時代のエピソード。小学校時代にクラスメイトからも教師からも無視されていた亀井美嘉に対して東ゆうは唯一話しかける。その理由はこうだ。

「用があるから話してるのに、止められる意味がわからない。私は尊敬してない人からの指示は受けない」

 正義感や同情からではなく、ただ用があるから話しかけるという単純な行動原理。これこそが東ゆうなのである。「用があるから」クラスのいじめられっ子に堂々と話しかけることもあれば、自身がアイドルになるために「用があるから」西南北の美少女と友達になる。ものすごく功利的な女だが、そうした彼女が小学生時代の亀井美嘉を救ったのも紛れもない事実。

 目的のためなら一切ためらいを持たない彼女の独善的な性格は、そのまま裏返って彼女の長所や魅力にもなる。

 そういうところも、そうじゃないところも東ちゃんにはあるのだ。

 

なぜこんな見せ方をしたのか

 多分、本作はもっと普通のアニメにすることもできたはず。だってこれ結構王道な話なんだもん。

「アイドルを目指す主人公は無茶な計画を立てて多くの人間を巻き込んでいく。計画は成功し、一度はアイドルデビューという夢を叶えるも、様々なトラブルが起きてグループは空中分解してしまう。しかし、主人公は自分の欠点を受け入れて人間として一回り成長すると、仲間と和解して今度は自分の力だけでアイドルへの道を目指す」

 こうしてプロットだけ取り出すと、ちゃんと三幕構成に沿った王道な内容なのである。

主人公である東ゆうも自己中心的な行動ばかり取って周囲の人間を巻き込むものの、結果的にいろんな人々を救うという点では、凄く王道の主人公である。アイドルを海賊王に変えれば、大体『ワンピース』のルフィになる女だ。

 にもかかわらず、なぜ王道のアイドルアニメとせず、ここまで露悪的な見せ方にしたのか。もともとの原作がそういう話だからと言ってしまえばそれまでだが、本作にそれに加えて観客の情緒をとことん揺さぶろうとする作り手の思惑を感じてしまう。

 もし仮に東西南北が友情を育む過程をしっかりと時間をかけて映していたら、東ゆうが最終的に仲間から許されることへの意外性は大きく減っただろうし、途中の仲違いもある種予定調和的なものとして処理されたかもしれない。

 『トラペジウム』は東ゆうの利己的で醜い一面を丁寧に映し、グループの崩壊を克明に描き、観客をどんどん不安な気持ちに追い詰めていく。そうやって観客の心を揺さぶり続けたからこそ、その反動で、ラストの少女たちの和解、そして最後に登場する「トラペジウム」と題された写真がもたらすカタルシスはより鮮烈なものとなるのではないだろうか。

 こうした露悪的な見せ方をしていたにもかかわらず、その実態が少女たちの友情の物語だったからこそ、一部の人間にここまで深くブッ刺さったのだろう。また鑑賞中は東ゆうのピーキーな言動ばかりを注目してしまい、鑑賞後になって映画の中で見落としたものに徐々に気づいていくという遅行性の青春映画になっているからこそ、観終わったあとにどんどん『トラペジウム』の存在が大きくなっていき、複数回観に行く人も増えていったのではないだろうか。

たしかにアイドルアニメだった『トラペジウム』

 余談にはなるが、本作はアイドルアニメというにはあまりにいびつである。ライブシーンが1回しかないとか、アイドルの楽しい瞬間よりも辛く苦しい瞬間の方が印象に残るとか、メンバーの一人が整形の過去を持ち、彼氏がいることが判明して大炎上するところとか、アイドルアニメとしてお約束を全力で外してきてるのだが、その中でも一番印象的なのはファンの姿がほとんど出てこないことだろう。

 SNSのフォロー数やファンレターの数など間接的な形でファンがいることを見せてはいるが、東ゆうの目線を通して観るそれは、「私にも応援してくれるファンがいる!」ではなく「私の人気が一番ない……」という自身の人気のパロメーターでしなく、ファンが個人ではなく数字として扱われていることの現れでもある。やっぱ嫌な女だな、東ゆう……。

 アイドルといったらファンの笑顔とかを喜びの糧にするのが普通では? 少なくとも建前ではそうあるべきなんじゃ……。ほら東ちゃんもこう仰っている。

 

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 まあ、この発言は直後に完全否定されるわけだが……。

 こんないびつなアイドルアニメでありながら、本作は人はなぜアイドルを目指すかという点に関してはとても真摯に書いている。その補助線となるのが物語終盤で卒業後の進路に海外での支援活動を選んだ華鳥蘭子のこのセリフである。

ボランティアやアイドルをやってみて気づいたの。わたくしでも、人に喜びを与えられるんだってことに。みなさんとアイドルに挑戦できたから人生が変わりはじめたのよ

 東ゆうのハチャメチャな行動が結果的に華鳥蘭子の人生に好影響を与えたことを示すポジティブなセリフだが、これはある意味作品の重大なテーマとも密接につながっている。

 そう、人を喜ばせたり、笑顔にさせることは別にアイドルじゃなくてもできるのだ。

 アイドル活動を通じて他人を笑顔にしたり勇気づけることができたとしても、それはあくまで結果であって、アイドルを志すならば「誰かのため」以上にもっと切実な動機が必要である。少なくとも本作にとってアイドルになるということはそうした思想を前提としていたように思われる。

 だからこそ東ゆうとの友情のためにアイドルになった他の3人は脱落し、アイドルが放つ光に憧れ自分のためにアイドルを目指した東ゆうは最終的にアイドルになった。

 原作が元アイドルが書いた小説ということもあって、この価値観はかなりシビアだ。だが、だからこそアイドルを目指す東ゆうがその過程で結果として多くの人間を救えていることに、アイドルという職業への希望が感じられる。

 色々とアイドルアニメらしくはないんだけど、こうしたアイドルに対する確固とした思想を打ち出している以上やはり『トラペジウム』はれっきとしたアイドルアニメなんだろう。

 でもその後『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』で最後にちゃんとライブをやっているシーンを見て、こっちの方がまだアイドルアニメらしさがあるなとは思った。

最後に

 いい加減『トラペジウム』に対する自信の考えを何らかの形でまとめないと、やたらと『トラペジウム』のことばかり考えてしまうので、頭の中を整理する意味で今回このようにまとめてみた。

 正直な話『トラペジウム』を観た直後はそこまで凄い映画だとも思わず、「なんか珍しいもん観たな」ぐらいの感覚だったのだが、時間が経てば経つほどにこの映画について考えるようになってしまい、どうして自分がそう思うようになったかを言語化したくて書いたエントリである。

 SNSで他の人の感想などを読まなければ、ここまでこの作品についての理解が深まることはなかったろうし、そういう意味で早くから『トラペジウム』という作品の良さについて語っていた方々には感謝しかない。少なくともSNSがなければ、俺は劇場に足を運ぶことはなかっただろう。

 上手く説明できたかどうかはわからないが、これを書いたことでしばらく『トラペジウム』のことは考える時間は減るだろうし、こうして言語化したからこそ改めて言えることもある。やっぱ『トラペジウム』は凄く良い映画だったよ。