「伊藤計劃以後」の耐えられない軽さ

 http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20140323/1395596751
 「伊藤計劃以後」という言葉が嫌いである。毛嫌いしている。
 正確には「伊藤計劃以後」という言葉を使う批評家連中が嫌いである。
 理由を挙げようとすると色々出てくるのだが、端的に言うとその「雑さ」が腹立たしい。
 独自性を持つそれぞれの作家をまとめて「伊藤計劃以後」とひとくくりにしてしまう杜撰さ、本のサブタイトルにまで使っておきながら「伊藤計劃以後」という言葉をろくに定義づけもしないまま援用する適当さ、本人の死を贈与扱いし、さらに死者の遺志を読みとって色々と好き勝手に代弁してしまう無神経さ。
 その雑な手つきにとことんうんざりする。
 出版社が本の帯に「伊藤計劃」の四文字を入れたがるのはわかる。伊藤計劃をきっかけにSFを知り、次に手に取る作品を探す読者には最適だろう。
 作家の生涯ばかりにフォーカスを当て、内容面には全く触れなかったため賛否が起こった「Project Itoh」だって、まあ、これをきっかけに読者が増えるのならば仕方がないと言えるかもしれない。
 だが、批評家連中がそれにベタに乗っかるのは反吐が出る。
 もちろん、作品と作家は基本的には不可分だ。『ハーモニー』という作品を論じる際に、執筆時の作者の病状抜きでやるのは難しい。だが語られるべきはあくまで作品の方であろう。その死に過剰な意味づけをし、何か意味があったかのように語る手法には虫唾が走るし、それこそ先日世間を賑やかせた佐村河内のやり方と何が違うのか。
 伊藤計劃の死は佐村河内の耳と違って、残念なことにまぎれもない真実で、さらに何を言っても反論してくることもない。大変使い勝手の良い商売道具だ。クソが。
 それでも、「伊藤計劃以前/以後」で国内で発表されたSF作品ないしはSF作家たちの意識が実際に変容した。そして検証が重ねられ、十分な根拠をもってその事実が証明されるのならば、「伊藤計劃以後」という分類にも納得せざるを得ない。
 だが、現状そのようなことが出来ているようには到底見えない。
 たとえば、一番初めにリンクを張った藤田直哉によれば、伊藤計劃以前とそれまでの違いと言えば、

1、読者の質(プロパーSFファン以外にも読まれるようになった)
2、内容が変わった
・ネットワークで接続された存在であるというポストヒューマンのテーマ
脳科学の応用
・管理社会などのテーマの前景化。
・意識と社会の関係
3、ソーシャルネットワーク(含む:資本、ミーム、メディアミックス、ネット)におけるノードとしての作品(作品を巡る環境、環境への自覚性)
 →割と、現実の延長、現実のメタファーのようにSFが読まれるようになった。難解な文学を志向するSFというよりは、同時代を理解するための同伴者として、SFが機能し始めた。大江健三郎が言う意味での、「同時代の文学」になってきている。

 とのことである。
 俺の方で具体的なソースを持ち合わせていないので、1と3については触れることができないのだが、2に関しては大いに異論がある。
 さて、ここで第6回日本SF新人賞を受賞した『ゴーディーサンディー』という作品について触れていきたい。

ゴーディーサンディー

ゴーディーサンディー

 amazonで読める内容紹介によれば、

監視システム「千手観音」によって、統合的な治安維持が進んだ日本で発達した新型のテロル。それは、生きている人体に仕込んだ爆弾―擬態内臓による、自爆攻撃であった。警察の機動隊爆発物対策班に所属する心経初は、擬態内臓を除去することを任務としている。すなわち、「対象」の人物を捕捉して、生きたまま「解体手術」を施すという仕事。成功イコール「対象」の死を意味するこの仕事を、機械的に淡々と進める心経であったが…。

 上で挙げられた伊藤計劃以後の内容に一致している。
 これこそまさに伊藤計劃以後の作品! 『ゴーディーサンディー』こそが伊藤計劃以後だと胸を張って言いたくなるが、問題は本作が出版されたのは2005年、つまり伊藤計劃以前の作品なわけである。うん。
 ……ってかさー、そもそも上の特徴ってさあ、「伊藤計劃以後」っていうか「攻殻S.A.C.以後」なんじゃねえかって言いたくなるんですけど、どうなんすかね、マジで。
 そうした種類の批判に対して、藤田はあらかじめ


 ということを言っているのだが、それだったら、そもそも「伊藤計劃以後というラベリングに無理があるのでは?」という話になるんじゃねえかな、普通は。
 で、この「伊藤計劃以後」という言葉だが、初めて登場したのは震災間もない時期に発売されたS-Fマガジンの2011年7月号。
 「特集 伊藤計劃以後」と銘打たれたこの号には、3・11後のSF的想像力というテーマで3人の作家から寄稿されたエッセイが掲載されているのだが、その中で注目したいのは、「伊藤計劃以後」と見なされることが多い長谷敏司によるものだ。
 ここで、長谷が書いた「原発事故後の想像力の被災について」というエッセイの一部を紹介させていただきたい。

 ギミックとしての原子力発電所というと、おそろしく不謹慎に聞こえると思う。だが、福島第一原子力発電所の事故より前、原発は未来のモニュメントとして機能していた。
 こうしたモニュメントが用意されていると、一見しただけで特徴的なイメージが読み手の中に浮かぶ。ビジュアル性の高い物語には表紙絵やポスターが用意されていることがあるが、それの少なくない割合は“一枚絵”を読み手に印象付けることを狙っている。“一枚絵”があると、たとえば三歳の子どもでもピラミッドというモニュメントからエジプトと砂漠を思い浮かべるように、物語のイメージがわかりやすくなるのだ。
(中略)
 モニュメントに感じ入ることは、技術を理解しなくてもできる。“わかりやすさ”こそが、それの価値だからだ。そして、そのモニュメントは、たとえばピラミッドを三歳の子どもでも知っているように、遠くからでも目立つ。むしろ、遠くにいる人間ほど、地元の住人はそこまで縛られないモニュメントを場所のわかりやすいイメージだということにしてしまう。
 イメージに人が集まることは、理解されることとは別だ。理解は、遠目に目立ちもせずわかりやすくもない、個人の体験なのだ。
 だが、それにもかかわらず理解とイメージの共有とは、本人からは判別できないほど似ていることがある。だから、実際のデータを丹念に追わない場所では、技術と現実を考えているつもりで、内心のモニュメントの被災について話していることが起こる。それが感情のぶつけ合いになりがちなのは、起こっている現象に即しているのではない、一種の自分語りだからだ。

 原発と未来の想像力について語ったこのエッセイはそれ自体でも十分興味深いのだが、今改めて読むと原発に関してばかりではなく、期せずして別の事象にも当てはまっているようにも思える。俺の牽強付会かもしれないけど。
 「夭逝した才能あふれる作家」あるいは「耳が不自由になりながらも音楽を作り続ける作曲家」。
 こうしたわかりやすいバックストーリーはみんな大好きだ。下手すると創作物それ自体よりも。
 そしてそのようなストーリーが金を産むというのも紛れもない事実だ。
 だが、批評家がそれに乗っかって、大した考察もなく安易に時代を切り取ろうとするならば、それは単なる俗情との結託じゃねえか、クソが。
 別に「伊藤計劃以後」という言葉を全否定するわけではない。
 今から三年後か五年後、あるいは十年後か、もっと先。伊藤計劃の影響を受けたという若い作家が続々と現れ、優れた作品を次々と発表するのであれば、それこそまさに「伊藤計劃以後」の到来と言えるだろう。
 あるいは先に述べたように、有志が仮説と検証を重ねて、誰もが納得せざるを得ない形で現在が「伊藤計劃以後」であることを証明してくれるのかもしれない。
 しかし、今のところはこの増田と同意見で、具体性を欠いたスッカスカの軽い単語にしか思えない。
 まあ最近は本格的にSF読んでない、どれくらい読んでないかっていうと「いい加減チャイナ・ミエヴィルの新刊(『都市と都市』)読まなきゃ」ってレベルなので、そーゆー奴がこういうこと書くのもどうなんかなーって思ったりもするんだけど、それでも中指を立てずにはいられないぐらいムカついたって話です。ファック。

自由主義少女リベ子☆マギカ[新編] 叛逆の物語

前回:自由主義少女リベ子ちゃんQ - 脳髄にアイスピック


「つい、この前まで正月気分だったのにもうセンター試験……冬の寒さと時間の流れの早さが身に染みるわね……」
「リベ子ちゃん! やさぐれている場合じゃないよ! 大変だよ!」
「あら、あなたは私の使い魔、私が呂布なら赤兎馬ポジションに当たるラルじゃない」
「例によって説明的な台詞をありがとう。そんなことよりこれ見てよ、これ!」
「なになに……ほえ〜、この炎上した人って、最近はてなブログで桃太郎ネタやおとぎ話ネタが大受けして、まさに飛ぶ鳥を落とす勢い、星井にあらずんば七億にあらずと呼ばれてた星井七億さんじゃない。あんな人気者でもこんな小っちゃなことで炎上するなんて恐ろしいわねえ……」
「リベ子ちゃん、深刻そうな口ぶりを装ってるけど口元がめっちゃニヤついているよ! 全然感情を隠しきれてないよ!」
「ほら、だって寒いからちょうど暖を取りたかったところだし、それに他人の炎上のもらい火で一服するのが、はてな村での粋ってやつだから……
「最悪の寒村だね! そりゃ寂れるよこんな村!…………話を元に戻すけど、僕もけっこう牛丼チェーン店は利用するほうでね、最近のオススメはすき家の三種のチーズ牛丼に、トッピングの1辛を加えるやつなんだ。口の中でチーズのまろやかな口当たりと牛の脂、そこに絶妙な加減の辛さがマッチして……」
「ごめん、全然興味ないわ、その話」
「…………そう。とにかくね、ごちそうさまが不必要なマナーなんて言われているけど、僕もやっぱり食べ終わった後は店員さんにちゃんと言ったほうが」
その必要はないわ
「えっ、斎藤千和!? 何か今一瞬声が千和っぽかったけど、なんで!?」
「いい、ラル。牛丼屋さんで、ごちそうさまなんて言う必要はないの。そんなこと言い出す奴はむしろ害悪よ!
「なんでだよ! このトピ主さんのエントリ、『あ、こいつ現役時代はこうやって発言小町で釣りをしてやがったな』ってのがわかるこのエントリでもお礼は言ったほうが良いって書いているよ! 一言お礼を言うだけでお店とお客さんの間で円滑な関係が築けるんだよ!」
「そうね、確かにそう。でもこの人はこうも書いているわ。『(その産業自体がブラックなものであれば、こういった感謝の気持ちを伝えることは罪作りなのかもしれませんが、それは別の話。)』」
「……ハッ!」
「そう、以前話題になったすき家の強盗の話からもわかる通り牛丼屋なんてブラック中のブラック。劣悪な労働環境、求められる長時間勤務、決して高いとは言えない給料……お客さんからの『ごちそうさま』という言葉はそうした苦労を一時的に和らげてくれるかもしれない。けど、そうやってブラックな環境に慣れていき、そこに生き甲斐を見出してしまえば、行き着く先は、先日話題になった居酒屋甲子園よ。それでは結局、資本家の思う壺。ありがとうと声をかけられた労働者は決して幸せになれないわ」
「…………確かにそうかもしれない。けどね、リベ子ちゃん。僕は食事というものを大切に思っているんだ。だからちゃんと食べたときの感謝は素直に伝えたいと思うんだよ。それが間違ってるなんて言われたら…………」
「そう嘆かないで、ラル。私がとっておきの解決方法を考え出してあげるわ。ポクポクポクポク…………リベラル・マギ・ホーリークインテット!」
「出た! リベ子ちゃんの取りあえず言ってみた感が強い呪文っぽい何かだ! ってか元ネタ自体が呪文っぽい何かだけどそれ呪文じゃないから!」
「全ての解決方法が見つかったわ、ラル」
「本当かい? リベ子ちゃん!?」
「そう、さっそくこれを見て!」



「…………」
「…………」
「なにこれ?」
伏せ丼よ!
「伏せ丼……?」
「伏せ丼、それは食事が終了した時に、完食したことを表すと同時に、料理の提供への感謝の思いを込めてどんぶりを逆さに伏せる行為。そう、これこそが食事における究極の感謝の所作
「いや、これ普通に迷惑行為だよね。テーブルも汚れるし」
「結果ばかりを見て過程をないがしろにするのは良くないわ。大事なのは食事に対する感謝を籠めること。たとえそれが届かなくても貴方が感謝をした。その事実こそが大事なんじゃない。そして店員さんは貴方が汚したテーブルを拭きながらこう思うの、『こんなキチガイばかりが来る職場なんてさっさと辞めよう。そしてもうちょっと福利厚生がしっかりした職に就こう』って」
「…………」
「貴方も感謝の気持ちを伝えられる、店員さんも転職する気になれる。そして、こうした地道な活動が日本を支配するデフレからの脱却に繋がる。皆幸せになれるわ。あと、食後に会計するお店だとガッツリ怒られる危険性があるから、ちゃんと食券制のお店でやらなきゃダメよ
「やっぱりダメじゃないか!」
「昨年、某掲示板で頻繁に伏せ丼のスレが立ってたけど、結局流行らなかったからね。残念でもないし当然。まあ実際ミーはおフランス料理のお店しかいかないザンスから、牛丼屋でのマナーなんかぶっちゃけどうでもいいのよねー。しーずかに寄り添ってー、何処にも行かないでー♪」
「うわっ、根本のレベルで切断処理してきやがった! 流石リベラルだ! あと初回鑑賞時は『ふーん、なかなかいいんじゃない』とかそっけない口調だったくせに、EDが『君の銀の庭』なあたり、こいつ相当叛逆気に入ってやがったな!」


つづかない

虚構新聞が嫌われる理由

 最近こんな記事があった。
虚構新聞社社主UK氏の深夜のつぶやき - Togetter
 その記事のブックマークについたコメントを見ればそれはそれはびっくりするぐらい嫌われている。
 しかも一つの方向からではなく、あらゆる角度からフルボッコだ。十人十色。皆がそれぞれの理由で蛇蝎の如く虚構新聞を嫌っている。
「つまんないから」「卑怯だから」「たかがネットで叩かれたぐらいで『映画版「モンティ・パイソン」がキリスト教を批判しているとして、公開討論番組で教会関係者から断罪されたマイケル・ペイリンがとても悲しそうな顔をしていたことや、筒井康隆てんかん表現をめぐって断筆宣言したことなど、「至って真面目な人たち」によって己の表現を否定されたときの気持ちが少し分かったような気がします。』とか言っちゃうから」「『ひな壇芸人が内輪でひたすら駄弁ってたり、ひたすらご飯食べてたり、聞いたこともない韓流アイドルばかり出てきてたりするような番組よりはマシなものを提供しているつもりではあるのだけれど。』とかドヤ顔で言っちゃうから」「何ていうか素の文章が生理的に受け付けない」
 まあ、理由は色々考えられるが、しかし、虚構新聞程度に不謹慎なサイトや人物なんてネット上にはいくらでも転がっている。なのに何故こうまで虚構新聞ばかりが嫌われるのか?
 答えは結構単純で、彼に住み分けをする気がないからである。
 虚構新聞はヘッダーに決して虚構新聞とは書かない。
 その理由について本人は

そもそも虚構新聞って、記事のリンクを開いて虚構新聞だったときのガッカリ感、逆に「これは虚構新聞だろう」と思って開いて本当にそうだったときの勝ち誇った感を味わうような、僕と読者との一種のゲームだったのですよね。昔なら「くそー、釣られたー」か、「虚構新聞余裕でした」の反応をちまちま見ながらほくそ笑んでいたのだけど、最近は人が増えたせいか、本気で怒り出す人が「虚構新聞つぶれろ」とか「死ね」とか言い出すようになって、気持ちが滅入ってしまうことも多かったです。

 このように語っているわけだが、正直な話、虚構新聞が好きでも何でもない我々からすれば、そんな遊びに付き合わされたら迷惑なことこの上ない。
 たとえば「脳髄にアイスピック」というサイトが嫌いな人がいるとする。その人物はツイッターか何かで、「脳髄にアイスピック」へのリンクを目にしたとしてもURLを踏もうとは思わないだろう。別に嫌いなサイトをわざわざ見る必要はない。
 これがネットの基本である。好きの反対は無関心。よっぽど譲れないものがあるのならばともかく、多少肌に合わないぐらいのことであれば無視して過ごすのが互いのためだろう。
 しかし、虚構新聞決してそれを許さない。ヘッダーに載せるのは常に記事名オンリーである。しかもツイッターなんかだと、URLが短縮されて表示されるからアドレスを見ただけではリンク先が判断できない。だからリンクを踏んだ結果、虚構新聞に飛ばされることもあるし、虚構新聞が嫌いな人は当然こうしたことにイラっとする。どれくらいイラッとするかというと、動画サイトで「無料動画はこちら!」ってリンクをクリックしたら、胡散臭いランキングサイトに飛ばされたぐらいにはイラッとする。即ち殺意。
 こうしたことが何度も繰り返されればそりゃヘイトも積み重なる。一度そのようなバイアスがかかれば、その後は各人がそれぞれの理由でさらなる嫌いな理由を見つけ出すだろうし、そして虚構新聞が何らかのミスをした場合、そのヘイトは一気に吹き出し、一斉に叩かれる
 つまり、虚構新聞のタイトルにサイト名を載せないという行為は、本人にとっては「一種のゲーム」のつもりだろうが、実際には世間のヘイトを溜めまくる行為であり、小さなことからコツコツとという言葉の大切さを我々に教えてくれるのである。
 いや、まあ、ちょっとググればこんな記事が出てくるぐらい既出の意見なんですけどね。
虚構新聞ヘイトの経緯、ボーガスとの違いとか - Diary Blog of Dary
 あと、まあなんですかね。あれですよね。
 ブラックジョークとか風刺とか言ってる奴が、多少叩かれたぐらいで、ネットはつまらなくなるだああだ言ってるのってマジ滑稽だし、そもそも一部から賞賛される代わりにそれ以上の数から批判されるリスクがあるのがブラックジョークや毒舌であって、それを少しネット上で叩かれたからって嘆いてみせるのは死ぬほどだせえっすよね。
 以上レポっす。チラシの裏すんません。

ユニセフ本部って表現規制を推進してるの?

 アグネスより徹子を選ぶ理由 - Togetter
 まあ、要はアグネスは漫画やアニメを散々目の敵にして批判してきたから、あいつが大使をやっている日本ユニセフには募金したくない。
 あいつらに募金するぐらいだったら徹子がいい。板東英二に向かって、「あなたのような子供を産んだ覚えはない」と言い放つ徹子は最高である。あと、登場人物の名前が全員、世界ふしぎ発見!出演者にちなんでいる平野耕太の『アサシネ』でも黒柳姐さんマジかっこいい。
 で、俺の徹子に関する知識が尽きたので本題に入るけど、こちらのブックマークページを見ていたら、こんなコメントがあった。

id:crowserpent
本家ユニセフ表現規制推進してるよ、って書こうとしたら既に同じツッコミ複数入ってた。

id:Ivan_Ivanobitch
いや、UNICEF総本部も表現規制推進派なのですが……

id:mongrelP
まぁ表現規制関係は本部でもやってるんですけどね(白目)

 などというコメントがあったのだが、寡聞にしてそんな話は聞いたことがない。
 ソースはどこだよ! 他人の揚げ足を取るときはソースが必須やろが!
 と思っていたら、ちゃんと下の方にソースを貼ってくれている人がいた。サンキューはてな

id:Lhankor_Mhy
こいつらおめでたいなあ……。日本ユニセフだけじゃないよ。「UNICEF児童ポルノマンガ・アニメーション・ゲーム所持制限を強化するように促した」http://www.reuters.com/article/2008/03/11/idINIndia-32418120080311

 さっそく確認しようとしたらソースが英語である。
 しまった! こんなことだったら、よくはてブのトップページに上がってる「半年でTOEICの点数を800点代に上げる方法」とか読んどきゃよかった!
 ってかさあ、ここは日本なんだから、英語のソースはソースとして認められないんじゃないかな? ちゃんとやまとことばを使ったニュースソースを持ってくるのが礼儀ってやつじゃなんじゃないかな?
 などと思ったが、はてブの文字数制限に引っかかったので、泣く泣くクレームを諦め、頑張って英語で読んだわけである。
 でさあ、そうしたら、こんな一文が見つかったわけですよ。

But the Japan branch of the United Nations Children's Fund (UNICEF) urged Tokyo to beef up its laws by banning child pornography in manga comics, animated films and computer games as well as individual possession.

「the Japan branch of the United Nations Children's Fund (UNICEF)」
 ユニセフ日本支部…………これってさ、日本ユニセフ協会のことなんじゃね?
 この記事がアップされたのは、2008年3月11日。
 この日はちょうど、日本ユニセフ協会ECPAT/ストップ子ども買春の会マイクロソフト株式会社、ヤフー株式会社などの共同によって「なくそう! 子どもポルノキャンペーン」が開始された日である。
 つまり、この記事は「なくそう! 子どもポルノキャンペーン」を紹介したものであり、この記事の中で漫画やアニメやゲームの規制強化を訴えているのは、国際連合児童基金本部ではなく、日本ユニセフ協会なのだ。
 もちろん、日本ユニセフ協会を、単純にユニセフの日本支部とみなして良いかという点には疑問の余地があるものの、日本人でもいまいち把握しきれてないものについて、外国人記者にそのような正確性を求めるのは酷であろう。
 確かに記事の見出しだけ見ると勘違いしそうになる。だが、この記事から「UNICEF児童ポルノマンガ・アニメーション・ゲーム所持制限を強化するように促した」などと引用するのは大きな誤りであろう。
 ちなみに昨年国連で行われたセミナーでも、児童ポルノ単純所持違法化を訴えてはいるものの、そこにはマンガやゲームなどに対する言及は一切含まれていない。
 【開催報告】“待ったなし!一日も早い児童ポルノ単純所持違法化を。”|日本ユニセフ協会|報告会レポート
 まあ、もちろん、写真や映像も表現の一種ではあるので、そういう意味ではユニセフ本部が表現規制を推進しているのは間違いない。
 この状況で「ユニセフ表現規制を一切推進していない」などと言おうものなら、「僕が必死に小学校のロッカーに忍び込んで撮った写真を表現とみなさないのはなぜだ!」「女子の股間から放たれる尿の、虹のような曲線に貴様は芸術性を感じ取れないのか!」などと怒鳴られるだろうし、そうなれば「すいません、僕が悪かったです」と素直に頭を下げて、こっそり通報するしかない。
 しかし、冒頭のtogetterでは、あくまで日本ユニセフ協会による「マンガ」や「アニメ」への表現規制に対して異を唱えているのであり、これに対して「本家ユニセフ表現規制を推進している」とツッコミを入れるのは的外れだろう。少なくとも、ユニセフ本部はマンガやアニメに対する表現規制を現状行ってはいない。
 もちろん、私は先に言ったようにろくに英語も読めない人間なので、ユニセフ本部がマンガやアニメに対する表現規制を推進しているという情報を見逃しているかもしれない。
 だから、もしそのようなソースがあるのであれば、是非紹介して頂きたいものである。

追記
 というわけでIDコールを使って呼びかけてみたら、mongrelP氏からソースの提供があった。
 わざわざありがとうございます。
 http://www.unicef.or.jp/special/0705/cyberporn03_03.html
 こちらは日本ユニセフ協会による、2007年から2009年にかけての「子どもの性虐待描写物に関する国際的な動向」のまとめである。
 ざっと見た限り、ユニセフ本部が直接的に規制を推進運動を行っている様子は見られないものの、下部にあるユニセフ高官のコメントによれば、

サード・フーリー事務局次長
(2009年6月 毎日新聞社のインタビューに答えて)
「漫画などで児童を性の対象とすることも容認できない。表現の自由を尊重するあまり、子どもの性的な対象とすることを許せば、子どもの人権を深刻な危険にさらす。」

アン・ベネマン事務局長
(2009年10月 「子どもたちの前進」発表会場で、記者の質問に答えて・朝日新聞他で報道)
子どもポルノは虐待であり子どもの権利の侵害です。日本で所持が認められていれば、インターネットで他国の人もアクセスできるのです。子どもに危害を与えるものならば、その表現の自由は制限されるべきです。」

 とのことである。
 サード・フーリーに関しては、これはもう確かに言っちゃっている。詳しいソースはこちらに。
 http://megalodon.jp/2009-0706-0102-28/mainichi.jp/select/opinion/closeup/news/20090627ddn003010025000c.html
 ただ、上の引用ではカットされているがこちらの記事では、コメントの末尾に「日本政府の取り組みに期待したい。」とあるように、積極的に規制運動を行う意志は見せていない。いずれ本格的に規制運動を始めるのかもしれないが。
 そして、アン・ベネマンのコメントだが、元の発言はこちらで読める。
 http://www.unicef.or.jp/osirase/back2009/0910_02.htm
 上記の引用だけだと、彼女が指す「子どもポルノ」がゲームやマンガなども含めているのか、判断しづらいが、その場で

表現の自由の問題があることも承知しています。私自身、表現の自由を最も尊ぶ国の出身です。そうした国々が、既に児童ポルノの問題に真剣に取り組んでいます。表現の自由には責任が伴います。表現の自由には、許される範囲というものもあります。しかし、他者を差別したり、陥れようとしたり、虐待したりするような表現は許されるべきではありません。」

 といった内容を語っており、ここで表現の自由を言葉を使っている以上、マンガやゲームといった媒体に対しても快く思っていないと考えるべきだろう。
 というわけで、ユニセフ内部でも児童が性的対象となるマンガやゲームに対して、批判的な人物もいることが判明した。
 その一方で、現状ユニセフ本部の組織そのものが、日本ユニセフ協会が行った「なくそう! 子どもポルノキャンペーン」のような規制推進運動に携わっているという情報は見当たらず。他にもこんなソースがあるというのならば、是非ご教授頂けたら幸いです。
 個人的にゃ、これらのケースだけを持って、ユニセフ本部を規制推進派とみなすのは言い過ぎではないのか。とは思う。
 苦しんでいる子供の命を救いたいが、だからといってマンガやアニメは規制されたくないという感覚は別に矛盾するものではあるまい。だとするのならば、日本ユニセフ協会を通さずユニセフに寄付したいからアグネスではなく徹子を選ぶという判断も「今のところ」間違っちゃあるめえ。

『ガッチャマン クラウズ』におけるヒーローとは何だったのか?

 前のエントリで、『「ヒーローとは何か」というテーマがスルーされてしまったのが残念』みたいなことを書いていたが、改めて最終回を見直すとそんなことはなかった。残念だったのは俺の見方であった。
 というわけで、改めて『ガッチャマン クラウズ』におけるヒーローとは何だったのかを考えていきたい。
 まず語られるべきは、初代ガッチャマンの要素を多く残している丈さん。いかにも典型的ヒーローとして描かれる彼は、世界を守ろうと意気込んだもののあっさりと戦いに敗れ、さらに自分より優れた奴なんて大量にいるという現実を突きつけられてヒーローであることをあっさりと放棄した。これによって、この世界ではただ優れた力を持っているだけではヒーローたりえないことが表される。
 次にクラウズ。ガッチャマンだけではどうしようもない状況で、ルイは特別な力を民衆に分け与えたことで、騒動を収束することに成功した。誰もがヒーローになれる。これは素晴らしい。しかも、旧来のヒーローと違って、個ではなく集団としての行動が可能である。まさに世界のアップデート。
 しかし、彼らには力を与える際に、「ヤバかったらいつでもやめれば良い」という安全と離脱の保障も与えている。だとすれば、自らの命が脅威にさらされた時にクラウズはヒーローとして行動できるのか?
 そこではじめちゃんである。彼女は悪意の塊であるベルク・カッツェと共生の道を選んだ。このリスクを伴う選択はクラウズたちには不可能だろう。
 ここに最終回ではじめちゃんが歌っていた「ヒーローって何スかねえ?」問いかけの答えがある。
 誰もが特別な力を持つ世界でヒーローに求められるのは、他者が「できないこと」をするのではない。他者が「やりたがらないこと」を行うのが真のヒーローの条件となるのだ。
 そして、そんな割を食う役目など普通の人間にはできるはずがない。だからこそ、一之瀬はじめなのだ。
 彼女は最初から最後まで一貫して、異質の存在として描かれた。彼女の言動は学校の教室内ではもちろん、同じヒーローであるガッチャマンからも、敵役であるベルク・カッツェからも完全には理解されなかった。
 そうした周囲とは異なる価値観を持つ彼女だからこそ、「悪との共生」という常人離れした決断ができたのだ。
 こうして、一之瀬はじめという一人の少女の姿を通じて、『ガッチャマン クラウズ』は「ヒーローとは何か?」という古典的な問いに答えてみせた。
 色々ポップなキャラクターデザインだったり、SNSなど目新しい題材を取り込みながらも、それでも『ガッチャマン クラウズ』はタツノコプロの作品の系列に連なる正統派のヒーローアニメとして完結してみせたと言える。言えるのだが……
 しかし、物語は終盤で物凄い駆け足で進んでしまい、そうしたはじめちゃんの決断の部分がわかりづらくなってしまったのが凄く残念なのである。
 俺が勘違いしたのも仕方がないね!
 それでもこうやって考えると、やっぱ『ガッチャマン クラウズ』はヒーローものとして、凄く良いアニメだったと思うし、だからこそどうにかDVDが発売されるときは、最後の二話を修正して、ちゃんと補完してくれないかしらと思う次第なのである。
 おしまい。

『ガッチャマン クラウズ』を観終わったっス!

 というわけで、二ヶ月前に推しに推していたガッチャマン クラウズ』が最終回を迎えたので感想を書くっス!
 当然ネタバレっス!(CV:矢島晶子

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『ガッチャマン クラウズ』を薦めたくなる三つの理由。

Crowds ガッチャ盤(期間限定)

Crowds ガッチャ盤(期間限定)

 『ガッチャマン クラウズ』が面白い。
 正直なところ始まる前はめっちゃ馬鹿にしてた。
 話を初めて聞いたときは「ちょwww今更ガッチャマンってwww四十年前のアニメじゃないっすかwww四十年前って言ったらドカベンがまだ柔道やってた頃じゃんwwwwww…………あれ? ということはドカベンって四十年前に連載が始まって、今でもチャンピオンで毎週連載やってんの…………? 水島新司マジパネえな…………」と恐れおののいてしまった。
 また監督が中村健治と聞いても、ノイタミナを見ていなかったのでどんな監督か知らなかったし、「実写映画のガッチャマンにあわせて新作放映とか、タツノコはんも上手いこと商売なさるもんどすなあ」とか京言葉交じりでたかをくくっている始末。当然視聴しないまま終わるだろうと思っていたのだが、TwitterのTLを眺めていたら「はじめちゃん、おっぱい!」「はじめちゃん、めちゃシコ!」なる呟きが一部から上がっており、「おっぱいでめちゃシコか…………ったくしょうがねえなあ、お前ら!」という具合になった。
そして、その流れでの視聴後第一声が「…………ええやないの」ですよ。
 ジョジョでも話題になった神風動画によるOPはスタイリッシュでクッソかっこいいし、CGをバリバリに使ったアクションシーンは、スーツのギミックも豊富で凄く楽しい。そして何よりヒロインのはじめちゃんが可愛い。一人称が僕、「〜〜っす」という言葉づかい、それに加えてハイテンションで電波な性格。
 手帳に頬擦りするし会話するし、変な鼻歌ばかり歌うし、3メートル近い瞬間移動するジジイを見ても平然と会話するし、いきなりガッチャマンをやれと言われてもあっさり引き受ける適応力。さらに敵生物を見た最初の感想が「可愛い」だったりと、色々ピーキー
 あと、ガッチャマンのリーダーである宇宙人、パイマンも良いキャラをしている。
 外見はパンダ。性格は頑固なおっさん。声は平野綾という一見ミスマッチな設定が上手く調和しており、見ていて凄く楽しい。


リーダー、パイマンの雄姿。その実態は昼からビールの缶を何本も開けるダメパンダ。

 他にも物語の中心に、オカマ、女装癖、性別不明の宇宙人など、トランスジェンダーなキャラが三人も配置されていたりと、色々おかしなことをやっている。こうしたキャラクターたちの存在だけでも充分魅力的なのだが、他にも楽しめる様々な要素が盛りだくさんなので、順番に挙げていこう。


その1 まったく新しい作品であること。

 

 冒頭にも書いたように初代ガッチャマンといえば元々は四十年前のアニメである。その続々編であるガッチャマンFですらテレビ放送されたのは三十年以上前。そこまで時代が離れてしまえば流石の矢口真里も「子供の頃から大ファンでした!」みたいなことは言えないだろう。それに彼女今それどころじゃないし……。
 だから今の若者のガッチャマン知識といえば、「ジョーって人がめっちゃミサイルをぶちこみたがるんでしょ!」や「『第三世界の長井』の博士にそっくりなキャラが出てくるんだよね!」や「昔、SMAPがCMでやってたよね!」ぐらいのもんであろう。多分、「科学忍者隊」というフレーズを耳にしても、サラリマンをネギトロにするザイバツのサイバーなニンジャの集団を想像してしまうに違いない。
 そんな状態でガッチャマンの新作をやると言われても、「…………自分初代を見ていないので新作とか結構っす」みたいな気持ちになってしまうよね。ってか俺はなった。
「だいたいさー、いくら実写映画でやるからって今更ガッチャマンとか持ち出されてもさあ…………そういえば今年の夏にはフルCGのキャプテン・ハーロックも公開されるらしいね、最近あれだね、コンテンツ不足に乗じて、偉くなったオッサンが自分が子供の頃に好きだったものを、金かけてリメイクしたがる傾向ってあるよね…………結局これもパッと見、新しめに見せかけてどうせ旧作の内容をなぞったものが出てくるんだろうな」って思ったらめっちゃ今風っすよ!
 舞台は立川だし、時代は2015年だし、SNSめっちゃ流行ってますし、変身する人達、誰一人マントを羽織っていないっすよ! ってかヒーローどころかパワーローダーみたいになってる奴まで混じってるっすよ! ガッチャマンの名前を借りてやりたい放題っすよ、先輩!


 変身後マシンに乗り込んだとかではなく、変身して直接これになる。つよそう

 大体一話のサブタイトルからして、「Avant-garde」ですからね。初めて見たときは「…………エイベントガーデ(震え声)」とか思ってたけど、アバンギャルドって読むんですってね、これ…………そう、アバンギャルド。つまりこのアニメでは既存作品の焼き直しなんかを作る気はさらさら無く、現代、この瞬間の最前線のアニメを作ってやろうという気に満ち満ちているのだ。
 そして、その現代の象徴となるのが本作の中心に位置するSNS「GALAX」だ。


その2 ヒーローとの対立軸にSNSを置いていること。

 

 現代のインターネットを語る上で、欠かせることのできないのがソーシャル・ネットワーキング・サービスSNSである。もう今この現代、老若男女、猫も杓子もSNSですよ。
 日常的にPCを扱う多くの人間がtwittermixiFacebookなどのアカウントを持っている。ちなみに、このネットの最果て、限界集落はてな村にも「はてなOne」と言われるSNSが存在し…………えっ、サービスもう終わったの!? マジで!? だって去年の2月にできたばっかり…………ああ、そうなの、ふーん…………まあ僕は誰からも誘われなかったから別にどうでもいいけどね…………あとwikipediaで、ソーシャル・ネットワーキング・サービスの一覧とか見てたら、「紳士と淑女のためのクンニサークル」というのが見つかったので、SNSってすげえなって思った。
 閑話休題
 とにかく最近はSNSが流行りで、ちょくちょく色んな形で漫画やアニメやドラマにもSNSが登場したりするのだが、本作ではそのSNSが話の中心に据えられているのだ。
 その名も「GALAX」。
 作中での描かれ方はアメーバピグやLINEとtwitterなど既存のSNSを上手く組み合わせた感じ。


 こんな感じ。はてなOneにもこれぐらいのキャッチーさがあれば……。

 
 そして、これらに加えてGALAX内にはユーザーの質問に答える超高性能AIが常駐されている。
 何か困ったことがあったときに、相談すると上手い解決策を提案してくれるのだ、それも丹下桜ボイスで!
 そんなサービスがあったら即登録するじゃないですか。だって丹下桜がこちらの質問に何でも答えてくれるんですよ。
 「『紳士と淑女のためのクンニサークル』ってどういったSNSなの?」って訊ねたら、「クンニが好きな人同士で情報交換と親交を深めるサークル活動を行っています」って言ってくれるんですよ! 丹下桜が!! 最高だな、GALAX!
 他にも、事故が起こったときに呼びかけたりすると、近辺にいるGALAXユーザーに連絡して、救急車よりも早く救助体勢を整えてくれたりするなど、凄く便利。
 そんなGALAXのそのキャッチフレーズは

世界をアップデートさせるのはヒーローじゃない。僕らだ。

 その言葉を裏付けるかのように第三話では、未殺菌の牛乳が流通するという事態に対し、GALAXユーザーたちの連携によって被害を減少してみせた。ガッチャマンの出番一切無し!
 これを見て「そんな都合よくいくわけねえだろ」と思う人もいるかも知れないが、その数日後、高校生達がLINEによって避難情報を共有し、被害を減じるというニュースが報じられ、この作品で描かれているのが単なる絵空事ではないことを証明してみせた。
 そして面白いのが、本作ではこうしたSNSを単純に肯定的に描いているわけではないのである。今回の描写に関しても、GALAXのユーザーたちは、自販機のコンセントを抜くなどして被害の軽減に努めたが、そこではGALAXから与えられた情報を疑う様子などいっさいない。そうしたGALAXを過信する彼らの様子がどこか薄気味悪いのだ。
 こうした演出はこちらの深読みというばかりじゃなく、意図的にやっていると思われる。
 SNSは人々に旧来のメディアでは考えられないほどの速報性をもたらしたが、それとひきかえにデマや風説の流布などもたやすく可能にもした。最近でも、東京都内でパーナさんなる人々が大変なことになっているという噂が流れ、一部に混乱と不安と爆笑をもたらした。


 混乱と不安と爆笑の一例。


 現状、作中のGALAXでは、丹下桜AIによる高度な情報統制が行われており、健全な状態が保たれているように見える。だが、そこに何らかの悪意が介在すればどうなるか?
 今後は、おそらくそういった面もクローズアップされていくと思われるのだが…………さて、それではガッチャマンはそこにどう絡むのか?



その3 先の予想がまったくつかないこと。

 ガッチャマンはヒーローものである。だからやはり変身して悪い奴と戦うんだろうというのが予想される展開であるが、本作品の場合、そうした予想が通用しない。
 だって戦う相手がいないんだもの…………。
 第一話の時点では、MESSと呼ばれる謎の生命体と戦っていたわけだが、第二話で早くもコミュニケーションらしきものが成立し、和解を果たしてしまった。
 一応人間に擬態して悪さを働く、ベルク・カッツェという謎の宇宙オカマも存在するが、やってることといえば、カップルを階段から突き落として「メシウマーーーーー!」と叫んだりするぐらいだ。


 男と熱いキスを交わすカッツェさん(右)。
 この後、左のおっさんに擬態し、カップルを階段から蹴落としてメシウマ状態

 そういうわけで、第三話にして変身シーンなしというヒーローものとしては異例の展開を見せており、活躍するのはGALAXばかり。
 そんなGALAXのユーザーたちは、作中で「ギャラクター」と呼ばれている。このギャラクター、聞いてもピンと来ない人も多いだろうが、実はこれ、初代ガッチャマンの敵組織の名前なのである。しかもGALAXを管理している丹下桜AIの名前が、初代のギャラクターのボスであった「総裁X」。
 なるほど、じゃあ、やはりGALAXが敵になるかとも思うのだが、そう単純に話は進まない。ガッチャマンのメンバーの大半がGALAXのユーザーである。すなわちガッチャマン=ギャラクター。シリーズ内の固有名詞を上手く流用しながら、ますます先の読めない展開を作ることに成功している。
 そもそも現代社会において、こいつを倒せば全てが解決する巨悪など存在しない。だったらコツコツ人助けや犯罪の取締りでもすれば良いのかもしれないが、作中ではそのような役割をギャラクターが勤めてしまっている。まさに「世界をアップデートさせるのはヒーローじゃない」のだ。そのような世界でヒーローはいったいどのような役割を果たすのか?
 他にも色々と登場人物や設定にも謎が多く、先の展開が読めないわけだが、この読めないというのは決していい意味ばかりではない。
 様々なテーマを盛り込んだこの内容がちゃんと12話内に収められるのかとか、変身できる五人のメンバーの内、現時点で二人しか変身していないが他のメンバーの活躍シーンが足りるのかとか、第三話にして、絵コンテ四人、作画監督六人という総動員体制に入っているが、スケジュールは大丈夫なのか? とか、思わず心配になってしまう部分も数多い。
 そういった部分も含めていろいろな意味で予想がつかず、テンションの高い主人公に引っ張られ物語も進んでいき、まるでジェットコースター気分。というわけで、リアルタイムで今後の展開を是非とも見守っていきたいのが、残念な部分が一つだけ。
 本作品は日本テレビでしか放映されていないのだ。Webでの配信も、放送日翌週の木金を除けば基本有料。もうすぐ公開される映画版の宣伝にもなるのだし、もうちょっと手軽に観れる環境を整えてくれるとありがたいのだが。
 何はともあれガッチャマンという懐かしのヒーローを使っていながら、物凄く新しいことに挑戦しているアニメなので、観れる環境にある人はチェックしてみると良いっす!

 他の方による『ガッチャマン クラウズ』の紹介エントリ
アップデートされるヒーローと世界「ガッチャマンクラウズ」 - 藤四郎のひつまぶし
http://www.swatz.net/entry/2013/07/30/203705