虚構新聞が嫌われる理由

 最近こんな記事があった。
虚構新聞社社主UK氏の深夜のつぶやき - Togetter
 その記事のブックマークについたコメントを見ればそれはそれはびっくりするぐらい嫌われている。
 しかも一つの方向からではなく、あらゆる角度からフルボッコだ。十人十色。皆がそれぞれの理由で蛇蝎の如く虚構新聞を嫌っている。
「つまんないから」「卑怯だから」「たかがネットで叩かれたぐらいで『映画版「モンティ・パイソン」がキリスト教を批判しているとして、公開討論番組で教会関係者から断罪されたマイケル・ペイリンがとても悲しそうな顔をしていたことや、筒井康隆てんかん表現をめぐって断筆宣言したことなど、「至って真面目な人たち」によって己の表現を否定されたときの気持ちが少し分かったような気がします。』とか言っちゃうから」「『ひな壇芸人が内輪でひたすら駄弁ってたり、ひたすらご飯食べてたり、聞いたこともない韓流アイドルばかり出てきてたりするような番組よりはマシなものを提供しているつもりではあるのだけれど。』とかドヤ顔で言っちゃうから」「何ていうか素の文章が生理的に受け付けない」
 まあ、理由は色々考えられるが、しかし、虚構新聞程度に不謹慎なサイトや人物なんてネット上にはいくらでも転がっている。なのに何故こうまで虚構新聞ばかりが嫌われるのか?
 答えは結構単純で、彼に住み分けをする気がないからである。
 虚構新聞はヘッダーに決して虚構新聞とは書かない。
 その理由について本人は

そもそも虚構新聞って、記事のリンクを開いて虚構新聞だったときのガッカリ感、逆に「これは虚構新聞だろう」と思って開いて本当にそうだったときの勝ち誇った感を味わうような、僕と読者との一種のゲームだったのですよね。昔なら「くそー、釣られたー」か、「虚構新聞余裕でした」の反応をちまちま見ながらほくそ笑んでいたのだけど、最近は人が増えたせいか、本気で怒り出す人が「虚構新聞つぶれろ」とか「死ね」とか言い出すようになって、気持ちが滅入ってしまうことも多かったです。

 このように語っているわけだが、正直な話、虚構新聞が好きでも何でもない我々からすれば、そんな遊びに付き合わされたら迷惑なことこの上ない。
 たとえば「脳髄にアイスピック」というサイトが嫌いな人がいるとする。その人物はツイッターか何かで、「脳髄にアイスピック」へのリンクを目にしたとしてもURLを踏もうとは思わないだろう。別に嫌いなサイトをわざわざ見る必要はない。
 これがネットの基本である。好きの反対は無関心。よっぽど譲れないものがあるのならばともかく、多少肌に合わないぐらいのことであれば無視して過ごすのが互いのためだろう。
 しかし、虚構新聞決してそれを許さない。ヘッダーに載せるのは常に記事名オンリーである。しかもツイッターなんかだと、URLが短縮されて表示されるからアドレスを見ただけではリンク先が判断できない。だからリンクを踏んだ結果、虚構新聞に飛ばされることもあるし、虚構新聞が嫌いな人は当然こうしたことにイラっとする。どれくらいイラッとするかというと、動画サイトで「無料動画はこちら!」ってリンクをクリックしたら、胡散臭いランキングサイトに飛ばされたぐらいにはイラッとする。即ち殺意。
 こうしたことが何度も繰り返されればそりゃヘイトも積み重なる。一度そのようなバイアスがかかれば、その後は各人がそれぞれの理由でさらなる嫌いな理由を見つけ出すだろうし、そして虚構新聞が何らかのミスをした場合、そのヘイトは一気に吹き出し、一斉に叩かれる
 つまり、虚構新聞のタイトルにサイト名を載せないという行為は、本人にとっては「一種のゲーム」のつもりだろうが、実際には世間のヘイトを溜めまくる行為であり、小さなことからコツコツとという言葉の大切さを我々に教えてくれるのである。
 いや、まあ、ちょっとググればこんな記事が出てくるぐらい既出の意見なんですけどね。
虚構新聞ヘイトの経緯、ボーガスとの違いとか - Diary Blog of Dary
 あと、まあなんですかね。あれですよね。
 ブラックジョークとか風刺とか言ってる奴が、多少叩かれたぐらいで、ネットはつまらなくなるだああだ言ってるのってマジ滑稽だし、そもそも一部から賞賛される代わりにそれ以上の数から批判されるリスクがあるのがブラックジョークや毒舌であって、それを少しネット上で叩かれたからって嘆いてみせるのは死ぬほどだせえっすよね。
 以上レポっす。チラシの裏すんません。