『バクマン』って結構ありなんじゃないかしら

 コンテクストを一切無視して唐突に語ると、結局のところ「書くしかない」というのが最終的な結論になるのは当然で、別に「書く」じゃなくて「描く」でも「演ずる」でも「歌う」でも何でもいいんだけど、何かになる為には、何かをしなければならないのは1+1=2と一緒で当たり前ですね。そうですね。ってな感じ。
 けど、「書くしかない」ということに関して何か別の手法がないのかしら、と思ってしまうのは、単純に失敗して徒労に終わる可能性があるから、自分の眼高手低という現実を突きつけられた際に自意識が耐えられない、実際そんなことやらなくても飯は食えるし楽しいことはいくらでもあるし、っていう様々な要因があって、根本的な話、「何か」になる必要ってないよね。
 けど書かずにいるってことに関しても、それなりの葛藤がやって来て、それは割愛するけど、結局そこで「書くしかない」っていうこの文章の冒頭に戻って、グルグル回り続けて、時間だけが過ぎていく。というのがボンクラのジレンマであり、このまま終わってしまうのは嫌なのだけど、見えづらいだけで、そうやって終わった人ってたくさんいるんだろうな。
 『バクマン』。
 最初はどうなるよ、これって感じだったのだけど、主人公達のライバル新妻エイジが出てから面白くなってきたような気がするってのは、新妻エイジが典型的な少年漫画の主人公タイプというか、子供の頃から漫画好きで、小学校の頃からペンを持ち、息をするように漫画を描く、それも作中の効果音を実際に口にしながらっていう天才キャラ。
 本来、少年漫画ってそういう熱意と才能がある奴が好ましい。それでもって熱意と才能はあるのだけど、実力は伴ってない主人公が読者の視点に立ちながら技術をスポンジの如く吸収していって、最終的に一流になっておしまい。って話が作りやすいしわかりやすい。
 けど、『バクマン』の主人公の二人はどうかっていうと、新妻エイジのように漫画が好きで好きでしょうがないので書くっていうわけではなくて、どっちかというと、何か一発当ててやろう。よし、漫画だ。じゃあ受けそうなネタを計算して描いてやるぜっていうタイプ。
 そのような姿勢は少年漫画の主人公としては邪道なのかもしれないけど、実際の人間って大半は新妻エイジにはなれないので、主人公の二人は多分、正しい。けど、その一般的な感覚が新妻エイジが持つ狂気染みた熱意に勝てるかっていうと、難しい気もして、そういう意味で今後『バクマン』がどういう落し所に持っていくかというのは見物ではある。
 『バクマン』の主人公の真城最高が漫画を描く理由ってのは、究極的には声優を目指している女の子と結婚したいからで、人気漫画家になるってのはその手段でしかなくて、それを不純であるとか言うのは簡単だけど、変に自意識をこじらせていると、何かをするのに大変腰が重くなってしまうので、そういうモチベーションをアウトソーシングするというのは一種の手法ではあると思う。スラダンだって花道がバスケを始めたのは最初は好きな娘の為だし、巨人の星だって飛雄馬が野球選手を目指したのは、親父の為だ。このような言い方だと巨人の星ってエヴァと構造が似てる気がしなくもない。そうか?
 とりあえず、俺のような人間にとって、自分の為だけに書こうとすると、冒頭でグダグダ言ったように、自意識が全力で足を引っ張るのだが、そこで自意識を切り離すと、俺がこれまで生きてきた部分の大半も一緒に切り捨てることになるので、自意識と折り合いをつけるための手段として、『バクマン』の主人公のように、モチベーションを外部要因に委ねる。ってのは即物的だが、一種の手法としてなりうるのではないだろうか。
 それは決して根本的な解決ではないのだけど、そもそも根本的に解決するようならば、もうとっくにやっているはずなので、モチベーションを外部に委託するのでも何でもいいけど、皮相的でもいいから、とりあえず、上手い事折り合いつけて、さっさとやれ→自分。ということなんだろう。
 もしかすると、そんなのとっくに自明で、そういうのを踏まえた上での話し合いだったのかもしれないが、俺じゃこれ以上の結論には行き着かず、それ以上行くと、無限地獄っぽいので尻尾巻いて逃げるし、結局現状を打破するためにはどうにかして自意識と折り合いをつけて「書くしかない」。
 しかし、年収が一千万超えたり、可愛らしい彼女が「そんなめんどくさいこと考えてないで、一緒にお風呂入ろ」などと語りかけてきた場合は勿論その限りではない。ボンクラだもの。