私の男 桜庭一樹

 ネタバレがあるので読んでねえ奴はけえれけえれ。
 で、直木賞とかいう有名な小説の賞にノミネートされたらしいので読んだ。
 この作品を語る為には、そもそも物語において、恋愛に発展する以前の関係性について考えなければいけない。そこでまずは、何故、幼なじみや妹といった関係性がこれほどまでに重宝されているかという事に触れていきたい。
 大方の恋愛の物語においては、ボーイがガールにミーツして始まり、紆余曲折を経て、それから二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ、というハッピーエンドで終わるか、望まない形で別れるというのが、王道パターンである。友情・努力・勝利ぐらいのレベルで。
 これらの王道において、恋愛に至るまでの関係性を簡易に書けるという点で、妹と幼なじみは強い。具体的な出会いの描写が無くても、気がつけば空気のように身の回りにいる上に、これらは付き合いの長さから、自然と情が深く親密になる。
 かくして、妹と幼なじみは恋愛界において、不動の地位を築いていると同時に、ここで重要なのが、恋愛以前の関係性において、幼なじみや妹以上を望むのはほぼ不可能なのである。生徒と教師とか看護婦と患者とか看守と囚人とか馬と団地妻の方が俺は良いなどという意見もあるかもしれないが、それはは単純に個人の好みなので、一切触れない。
 しかし、桜庭一樹『私の男』で取り出したのは、これらの関係性を凌駕する「親娘」というカードである。親密性では、恐らくこれ以上はない。関係性のインフレの境地で、これ以上を望むと、クローンとか、パラレルワールドの性別が反転した自分とかになるので、一般的にありうる関係においては、ここが限界だろう。
 さて、『私の男』とはストーリーの一部を恣意的に取り上げるなら、男が戸籍上義理の娘に当たると女とヤリまくって別れるまでという話である。物語の時間軸を考えると、この説明は物凄い不適切なのだけど、そこはスルーしていただきたい。
 何も知らない少女と一緒に暮らし、更には肉体関係を持ち、自分好みに育てていく。
 つまり、男のロマンである。
 最近でも『よつばと!』があり、ゲームでは『プリンセスメーカー』なんてのがあるし、古い所では『サロメ』とかもあるわけで、無論そこに欲情するかどうかは、その人間のモラル次第なのだけど、そういうことを置いて、義理の娘というのがそれなりに需要がある。
 しかし、ここで幼なじみや妹では起こらなかった、困った事が起こる。義理の娘が欲しいという男はいても、義理の父親が欲しいという少女はあんまりいないのである。
 幼なじみが互いに五分五分の関係にあるのに対し、親娘という関係性は実に一方的で、不平等なのである。
 そして、この作品は娘の花の視点から書かれている。
 桜庭一樹ライトノベル出身であり、オタク文化にある程度の知識を持っているし、多少の共感は持っていたはずである。その彼女が、女流作家として、女性の立場から、オタク好みのシチュエーションの身勝手さを暗に批判している。この作品こそが、桜庭一樹の作家としての決定的な分岐点になるに違いないとかのたまうと、流石に胡散臭いしアホらしいので黙るけど。
 また、この物語は、時間を遡るという形式を伴っている為、この作品では、一見不快感や嫌悪感ばかりが目立つ親娘の関係が、話が過去に戻るにしたがって、どれだけ根が深く哀切でグロテスクなのかを読者に思い知らせる。
 かくして、関係性のとことんまでのグロテスクさを用いて、桜庭一樹男のロマンを叩っ壊すことに成功した。
 しかし、男のロマンは不滅である。エロゲーの世界では『よつばと!』などの義理の娘との楽しい日常程度では満足しない。昨年発売された『娘姉妹』では、実の娘とのエロシーンが嬉々として書かれている。娘二人を妊娠させても、そこには一片の罪悪感も描かれない。そこにあるのは、可愛くて若い娘がいたら、手を出すのが当然という雄の本能への全肯定である。そうした男の率直な欲望を『娘姉妹』は一切の衒いなしに書いた。娘のことなんか何一つ考慮しない。
 確かに、女性の立場でしか書けない形で、親娘の関係を書いた桜庭一樹は凄い。けど、それと同じくらい、世間の倫理観を破る事を一切躊躇せずに、明るく楽しく近親相姦を描いた『娘姉妹』も凄い。
 だから直木賞『私の男』に授与するならば、『娘姉妹』にも同様に授与するのが当然であり、いい加減適当すぎるなと自分でも思ったので寝る。

私の男

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