オモロ・つまらんでしか語れない奴にゃ漫画の楽しみなんぞ理解できまい

http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081129/1227941427
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 先日スティーヴン・ハンターの『47人目の男』という伝説のスナイパー、ボブ・リー・スワガーの最新シリーズを読んだ。ボブが、お世話になった家族の仇をとるため、ニッポンの右翼を日本刀でバッサバッサ切りまくるという話で、読んだ人間の九割が、「銃使えよスワガー……」と思ったことは間違いないが、この作品の日本の描写の中にこんなものがある。
 

 郊外へ向かうJRの列車は、ものの数分、いや数秒のうちに到着し、彼は、会計士でもセールスマンでも教師でもコンピュータ設計者の誰でもありえる男の隣に腰をおろした。――男はきちんとスーツを着て、鼈甲縁の眼鏡をかけ、髪を後ろへ撫でつけていて、周囲を気にせず、なにかに一心にのめりこんでいた。が、ボブがそちらに目をやると、その男が夢中になっているものが見えた。<ウォールストリート・ジャーナル>などではなく、何かのコミックブックだった。縛られた少女たちが、同じく十代の少女たちに、あれにしか見えないが、本物のあれよりさらに大きい道具で責められている。肉感的で、具体的で、誇張のある描きかただ。アメリカなら、ところによっては逮捕されるおそれすらあるものなのに、ここでは、複雑な抵当利息の仕組みでも理解していそうな男が、なにごともなさそうに読んで、明らかにかなりの悦楽を感じながらストーリーを追っているのだ。

 この後、他にも電車内で、エロ本を読んでいる奴がいて、そういえば、カブキチョーはポルノショップばっかりだったぜ、マルコ・ポーロが語った黄金は、今この国の人々の魂の中に確かに存在するのだ。とかいう描写があった。多分。
 これに関してはとりあえず、アメリカに向かって中指を立てるぐらいで穏便に済ましておきたいが、コミケ帰りのゆりかもめならともかく、普段電車を利用する際に、快楽天メガストアを電車の中で読むのはみっともないと感じるだろう。何故か。エロいからだ。流石にポルノは衆人環視の中で読むのは気が引けるだろう。
 だが、ここで難しいのが、ヤングアニマルヤングチャンピオンを読むのはみっともないかどうかということだ
 ヤングアニマルは全ての漫画がエロいというわけではないが、大半の漫画はエロい。下手に中学校に持って行けば、「あー、エロ本持ってきてるー」と囃し立てられ、あだ名がポルノ魔人とかエロ本男爵になるのは間違いない。
 「誤解だよ、僕は『ホーリーランド』の人の新作が読みたいだけなんだよ」と主張しても、どうせ『ふたりエッチ』だろ。由良さんとオマンコしたいって思ってるんだろ。とレッテルを貼られるのが関の山だし、そもそも読みたいと主張してる『自殺島』にもエロシーンあるし。
 こうなってくると、我々は自分達でも意識していなかっただけで、知らず知らずの内に人前で自然とポルノを摂取していたのかもしれない。実はスワガーが感じたことも正しい気がしてくるがどうなのだろうか?
 あと、個人的にはヤングアニマルよりも、電撃大王とかフラッパーとかを読む方がみっともないような気がするけど、何でだろう。俺の偏見? それとも平とじだから?
 それと、昔っから気になってるんだけど、駅のキオスクに官能小説が置いてるのは何で?オッサンはあれを電車の中で読むの?
 と、まぁ、自分の疑問を電話線の向こうに放り投げる行為は止めて、いい加減本題に入る。

 この話を始める前に前提として、僕はある一つのことを問いたい。
 漫画とは何か? 


 漫画とはゴラクである。
 即ち漫画ゴラクこそが、至高の雑誌であり、『白竜』の男らしさに惚れ、『喰いしん坊!』の食事の描写に喉を鳴らし*1……そうじゃなくて、漫画は娯楽である。だから、面白い、つまらないで判断するのは間違ってない。
 だが、果たしてそれで全てなのか。
 漫画とは結局のところ娯楽の一種で、退屈な時間を潰すためだけのジャリ向けの読み物に過ぎないのかと言われれば、僕は首を横に振るだろう。
 漫画とは物語であり、哲学を含んだ芸術であり、絵と文字を用いれば、ありとあらゆる自由性に満ちた手法が許される表現形式であって、ポルノから学習教材にまでその分野を適用されつつ、それと同時に出版社の屋台骨を支える商品でもある。
 そのような漫画を面白い・つまらないの安易な二項対立でしか測れない。いや、自分の中で処理するのであれば、それで何も問題がないが、その考えを表に出して、他人をみっともないと言うのであれば、その品性こそがみっともないと僕は言うであろう。
 例えば、プルーストの『失われた時を求めて』に対して、長くて退屈だし読んでいられないと言うのは一つの見方として正しいであろう。
 だからと言って、読んでもいないのに「あのような冗長な作品を素晴らしいと持ち上げるのは、インテリや文学者の驕りにすぎない」というのであれば、その人間の見識に疑問を呈す。
 長くて退屈でつまらないと言う感想が間違っているとは言えない。だが、そのような作品に価値や意味が見出せないかというのは全くの別である。
 作品の真価とは面白い・つまらないとは別のところにも存在するのである。
 福本信行の『アカギ』という麻雀漫画がある。
 この漫画では現在、主人公のアカギが、鷲巣という頭のおかしい金持ち相手に一晩の麻雀勝負を挑んでいるのだが、その一晩の勝負が何とかれこれ十年以上に渡っているのだ。しかも、世界設定を同じくする別の漫画で、元気に活躍している老後のアカギが描かれていることから、この勝負はアカギが勝つということがわかりきっている。さらに一ヶ月の間で、二、三回牌をツモっておしまい。というだけの話もざらにある。
 こうして説明すると、これほど退屈な話もない。しかし、多くの漫画好きは『アカギ』を読み続けるのだ。
 何故か。それには、ギャンブルという疑心暗鬼の戦いの中で執拗に描かれる心理描写に加え、鷲巣というキャラクターに対する愛、今月こそ物語が大きく動くかもしれないという期待、前半リードして、満面に笑みを浮かべるも鷲巣様、そして、後半あっさりアカギにリードをひっくり返されるという決まりきった展開が、読者の脳に引き起こした中毒化。さまざまな要因があるが、それ以上に単純に物語を読み続けるという楽しみというのが存在するのではないだろうか。
 勿論、初期の方が話がサクサク進んで、漫画として面白かったというのは簡単である。正直俺もそう思う。だが、それはただ面白いだけなのだ。ただ面白いということを非難する気はない。むしろ、そうした漫画がもっとあれば良いと思う。
 だが、しかし、我々は『アカギ』の最終回を読むときに、ただ面白い漫画では味わう事のできない感動的な何かを味わうことができるのではないだろうか。それはリアルタイムで『アカギ』という極限までに反復され、似たような展開を何度も味わい、ミニマル化した『アカギ』を雑誌で読み続けた人間にのみ与えらえる至福の瞬間である。後世、完結した『アカギ』をまとめて読み終えた人はこのように言うことだろう。
「無駄に長い」
 だが、その長さがリアルタイムで読む人々には決して無駄ではなかったのだ。その長さに付き合って、読み始めた時は小学生だった人が成長し、受験、入学、就職、結婚と、人生の節目節目を鷲巣麻雀とともに迎える。そして、彼はいつか死を目前にして己の人生を振り返る時に、このようなことに気づくのだ。
「自分の人生の半分は鷲巣と一緒だった」
 連載漫画とはそういった特別なものであり、この形式一つとっても、漫画というのがただの面白い・つまらないで括れるものではないとわかっていただけるのではないだろうか。
 けど、同じ作者が別雑誌で連載中の『賭博覇王伝 零』が自分がおかしいんじゃないかと思うぐらい面白くないので、やっぱ無駄になるかもしれないわ。ごめん。
 あと、俺にとって何が面白いのかわからない、最近の『ナルト』がジャンプ内では依然として人気漫画であり、一方、神がかって面白いと感じていた新井英樹の『RIN』が別冊ヤングマガジンで打ち切られたような終り方をしたので、面白さってことに関して考えるのであれば、単純に面白い漫画だけではなく、こういうことにも関しても考えていきたい。要は漫画ってのは深いのである。将棋と同じくらい。
 結論を言おう。どうせ読んでないだろうから偉そうなことをのたまう前に『極道めし』を読め、クソが。

*1:実際のところ最近の『喰いしん坊!』の食べ物の描写は良い意味で不味そうで、大食いの辛さが伝わってくる。